第一節
快晴と呼ぶには陽光を遮る薄雲が空を覆い、曇天と呼ぶにも空気はさほど湿っていない。草花に溜まった露を舌先に浸し、乾いた唇を舐めた男は血が滲む傷口を指先でなぞる。
飢えていようと、渇いていようと、身体は不思議と生存の術を探るものだ。ジッと地面に伏せ、眼の前を通り過ぎた蛇を鷲掴みにした男は鬼気迫る表情で頭を噛み千切り、掌に飛び散った血を啜る。
鱗で覆われた皮を剥がし、骨肉にむしゃぶりついていた男の姿は餓鬼が共食いに興じる様と瓜二つ……いや、それ以上に酷い。血の一滴も逃すまいと指をしゃぶり、皮に残った肉片を齧り取っては錆びたナイフで吐き捨てた頭を穿り返す。ピンク色の脳を指先で揺らし、惜しみながら丁寧に舐め取った男は草を毟り取ると茎を噛り、僅かな水分で喉を潤した。
やっと一息吐いたと喉奥に溜まった息を吐き、近くの木へ背中を預けた男は腰に吊っていた剣を抜く。両刃の長剣でありながら刀身の半分が赤茶色に錆び、もう片方はゆっくりと落ちた木の葉をスッと切れる程鋭利に研がれた奇妙な剣。ポーチから砥石を取り出し、真剣な眼差しで剣を研ぎ始めた男の目に一人の少女が映る。
黒を基調とした無装飾のシスター服、唯一目についた貴重品と云えばこの曖昧な天気でもキラリと光る銀塗りのロザリオか。一歩ずつ歩を進めるシスターへ手を振った男は、皮肉たっぷりな笑顔を浮かべ「お嬢さん、こんな天気に散歩たぁ不用心だねぇ。鬼に食われちまうよ? そんなんじゃ」剣先を薄雲へ向けた。
「あの」
「ん?」
「貴男は」
「俺? あぁ、気にすんなよ。別に取って食うつもりはないからさ。少し用事があるんだよ、この先の村にさ」
少女の顔が引き締まり、警戒心を孕んだ目で男を睨む。
「そう睨むなよ、お嬢ちゃん。可愛い面で凄んでも全然怖くないんだぜ? こっちはな」
「……取るものなんてありませんよ」
「知ってる」
「村には貴重な品なんて一つも」
「金なんて興味無いんだよ俺ぁな。ま、欲しいモノはあるけどね」
「……欲しいモノ?」
エッエッと息を詰まらせたように笑った男は燃え滾るような真っ赤な瞳で少女を射抜き、研いだ剣を鞘に収める。
「そ、俺ぁ村にあるって噂の道具が欲しいんだ。どんな呪いでも消せるっていう聖人の血杯。お嬢ちゃん、その道具がどこにあるか知ってるかい?」
「……」
「なぁに嘘を言っても食わねぇよ人間なんかさ。人を食うのは化物だけ、それこそ血に飢えた不死者の専売特許だろ? それに、お嬢ちゃんには俺が不死者か何かに見えたかい?」
男を頭の天辺から爪先まで観察した少女は益々顔を顰め、その異様な雰囲気に息を飲む。
黒打ちの全身甲冑は所々錆つき、亀裂の隙間から見える鉄網もまた変色した血で黒鉄と大差無し。ベルトに繋がれたポーチのボタンも擦り切れ、元の色を失い鈍色に照っている。それだけならば長旅に疲れた流れの戦士か、戦地を渡り歩く傭兵だと少女はそう判断しただろう。
だが、その使い古された装備品以上に異彩を放っていたのは男の顔面と武器だった。ハツラツとした艶のある肌であるのに、眼は爛々とした獣性を宿しギラついている。乾いて裂けた唇は血の雫を滴らせ、笑っているのに笑っていない狂気の面。錆びて鋭利な剣を携え、飄々とした態度を崩さない男の様相は夜に蠢く不死者のようで、とてもじゃないが人間の姿とは云えなかった。
「そう警戒するなよ、悲しいだろ? お嬢ちゃん、お願いがあるんだけどいいかな?」
「……」
「村まで案内してくれたら嬉しいね。こちとらロクなモノ食ってなくてさ、色々と入り用だ。あ、金の問題ならしなくてもいいぜ? こう見えて結構金持ってんだよ、俺」
「名前も話さない人を村に」
「ダァト」
「え?」
「ダァトってんだ、俺の名前。ダァト・フォルグレス。カッコいいだろ? イカしてるって褒めてもいいぜ? さ、俺の名前教えたんだから、次はお嬢ちゃんのお名前を教えて欲しいな。嫌だろ? 何時までもガキ扱いされんのはさ」
クツクツと含んだような笑みを浮かべ、真紅の瞳を少女へ向けた男……ダァトは木の幹に寄り掛かりながらゆっくりと立ち上がる。
身長は二メートル近く、体格も一枚の大壁のように重々しい。全身甲冑を纏っていても、亀裂の奥に見える肌は陽光に照って汗ばんでいた。一歩ずつ踏み出すダァトを見上げ、顔を青褪めた少女は腰を抜かしてへたり込む。
「おいおい、大丈夫か? 手ぇ貸してやろうか? 冷たい鋼で悪いけど」
「―――」
「参ったねこりゃぁ……」
黒打ちの籠手が剣の柄を握りしめ、小気味良い音を立てて凶刃を抜き放つ。白刃に映る己の姿を目にした少女はロザリオを胸に瞼を固く閉じ、頭を垂れて祈る。せめて苦しまぬように命を終えたいと、絶望を感じないように逝きたいと節に願う。
「良い態勢だ、そのままジッとしててくれよ?」
大きく振るわれた刃が空を斬り、
「そうしてくれりゃぁ、俺もずっと戦いやすい」
唾液を垂れ流しながら飛び掛かって来た青目の狼を一撃で両断する。
「な―――あ?」
「お嬢ちゃん、良いことを教えてやろう。不死者ってのはな、自分の手を極力汚したくないんだよ。だからこうして」ズルリと這い出た腐肉の死体を踏み潰し「眷属を使役して、生者を襲う。覚えておきな? 聖職者ならよ」少女を抱きかかえた。
「どうして」
「ん?」
「私を助けてくれるんですか?」
「女の子だから」
「え」
「男ってのは可愛い子ちゃんに弱いんだ。騙されても泣き顔を見せられちゃ頷いちまうし、剣を腹に突き立てられそうになっても、極力穏便に事を済まそうと躍起になる。ま、女を守ってこそが男ってこったな。俺ぁそう思うぜ? お嬢ちゃん」
愉快極まりないと笑い、木陰から飛びかかる狼の眷属を次々と斬り伏せたダァトは、血濡れの剣を二度振り払う。
「で、お嬢ちゃん」
「はい」
「名前、聞かせてくれたら嬉しいね」
「ま」
「ま?」
「マリアンヌ・フォスです。その……村の教会でお世話になってる、えっと」
「マリアンヌ、綺麗な響きだねぇ。お嬢ちゃんにピッタリじゃねぇか」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
強く、更に強く―――籠手の鋼から血が滴るほど剣の柄を握り締め、片腕で狼を両断するダァトの剣筋は暴力と経験にものを言わせた修羅の剣。地中から這い出す腐乱死体を蹴り砕き、口笛を吹いた剣士は「マリアンヌ、ポーチから魔石を取ってくれ。頼むよ」と余裕な笑みを口元に湛えた。
「魔石?」
「あぁ、知り合いに術を込めて貰っててさ。よく効くんだよ、眷属相手には」
「えっと」ごちゃごちゃとワケの分からない道具が詰め込まれたポーチへ手を伸ばし、掌大の青紫色の石を取り出したマリアンヌは「これですか?」とダァトへ問う。
「そ、勘が良いねぇ。聖光の術は使えるか?」
「一応は……けど」
「けど?」
「神父様からはその、術を使うことを禁じられていまして……。上手く使えるかどうかは」
「へぇ……。ま、駄目で元々上手けりゃ上等だろ? やってみな、マリアンヌ」
術の使用は幼い頃より神父……親代わりの影から禁じられていた行為だった。魔術とは心身を穢す醜い所作であり、聖光とは信仰する神の手を煩わせる愚行であると。
禁を破る行為がどれほど重い罪であるのかマリアンヌは知っている。祈りの間と呼ばれる暗く湿った部屋へ押し込まれ、誰かの叫びを聞きながらひたすら神父の赦しを願わねばならぬのだ。無数の視線を浴びながら、恐怖に蝕まれる感覚は絶望の一言に尽きる。
「……ごめんなさい」
「うん」
「私には……できません」
「そっか、なら仕方ねぇよ。じゃぁ代わりに村まで案内してくれないか? 眷属の処理は俺がやるからさ」
「……はい」
意を決したように森を突き進み、無数の獣を斬り殺すダァトは静かに道を指し示すマリアンナを一瞥し、血飛沫を浴びながら森を駆け抜けた。