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第九章:一つの命の重さ

学院に入学してから一年が過ぎた、初夏の頃。俺たち一年生には、初めての本格的な野外実地訓練が課されることになった。名目は「近隣森林地帯における生態系調査及び、初級魔物への対処訓練」。要するに、比較的安全とされる区域で、実戦の真似事を経験させる、ということだろう。


俺は、運が良いのか悪いのか、友人のカイ、そして好敵手のマーカスと同じ班に組み込まれた。他に数名の生徒、そして引率役として、体術教官のガイル先生が同行することになった。ガイル先生は寡黙だが実力は確かだと評判の人物だ。出発前、彼は俺たち生徒に、あくまで訓練であること、危険があれば即座に撤退することを念入りに言い含めた。だが、その目には、俺たちに向けられた一抹の不安のようなものが宿っている気がした。


都市ラドクリフの門を出て、緑深い森へと足を踏み入れる。最初は、緊張感の中にもどこか遠足のような浮かれた気分が漂っていた。マーカスは相変わらず自信満々に先頭を歩き、カイは周囲への警戒を怠らない。俺は、ファエラルに叩き込まれた通り、マナの流れや周囲の気配に意識を集中させながら、地図とコンパスで現在地を確認する。


数時間が経過し、森の奥へと進んだ頃だ。予定では、この辺りでゴブリンや大型の牙猪ファングボアといった、比較的対処しやすい魔物と遭遇するはずだった。

だが、その時、俺たちの前方に現れたのは、それらとは明らかに異なる、異様な気配を放つ存在だった。


「…待て、何か来るぞ!」

カイが鋭く叫んだ。

木々の間から、ぬらり、と姿を現したのは、全長三メートルはあろうかという、巨大な蜘蛛型の魔物だった。複数の赤い複眼が不気味に光り、鋭い牙からは粘液が滴っている。その姿は、俺たちが事前に教わっていたどの魔物とも合致しなかった。


「…フォレスト・スピッターだと? 馬鹿な、こんな浅い森に生息しているはずが…!」

ガイル先生が、苦々しげに吐き捨てる。その声には、明確な焦りの色が滲んでいた。

「総員、防御態勢! こいつは危険だ、撤退するぞ!」


だが、先生の指示は遅かった。フォレスト・スピッターは、素早い動きで俺たちに襲いかかってきたのだ。ガイル先生が前に出て、その巨大な鎌のような前脚を剣で受け止める。火花が散り、凄まじい衝撃音が響いた。


「お前たちは早く逃げろ! 私がこいつを食い止める!」

先生は叫びながら、魔物と激しく打ち合った。しかし、相手は予想以上に強力だった。先生の肩や足に、魔物の牙や爪が浅く、しかし確実に傷を刻んでいく。


「先生!」

マーカスが、得意の火球魔法を放った。しかし、魔物は素早く身をかわし、火球は背後の木々を燃やすだけだった。

「くそっ!」


その時、魔物の注意が、やや後方にいたカイに向いた。魔物は、素早く粘着性の高い糸を吐き出し、カイの足を絡め取ったのだ。

「うわっ!」

身動きが取れなくなったカイに、魔物の鋭い牙が迫る。


「カイ!」

俺は、ほとんど無意識に叫んでいた。

ガイル先生は別の脚に阻まれ、マーカスは次の魔法の詠唱が間に合わない。

このままでは、カイが殺される…!


頭の中で、ファエラルの声が響いた。『――迷うな。最も効率よく、確実に敵を無力化する方法を選べ』


俺は、震える手で杖を構え、全神経を集中させた。習得したばかりの、しかし最も精密な制御を要する魔法。――風の刃。ただの刃ではない。マナを極限まで圧縮し、回転させ、貫通力を高めた、一点集中の「槍」。


(狙いは、複眼の一つ…!)


心臓が早鐘のように打つ。失敗は許されない。もし外せば、カイは…。

一瞬の静寂。俺は、息を吸い込み、マナを解き放った。


ヒュンッ、という鋭い風切り音と共に、不可視の刃が放たれた。それは、正確にフォレスト・スピッターの複眼の一つに突き刺さった。


『ギシャアアアアアアアッ!!』


魔物は、凄まじい絶叫を上げ、苦痛に身を捩らせた。その隙に、ガイル先生が渾身の一撃で魔物の体勢を崩し、カイも必死に糸から抜け出した。


だが、俺は動けなかった。

俺の放った「槍」が、魔物の赤い眼球を潰し、その奥まで達している光景が、目に焼き付いて離れない。どす黒い体液が、そこから溢れ出している。


魔物は、致命傷を負いながらも最後の力を振り絞り、ガイル先生に猛攻を仕掛けたが、やがて動きを鈍らせ、絶命した。


戦闘が終わると、森には不気味な静寂が訪れた。

俺は、自分がやったことの現実感に、打ちのめされていた。

手が、小刻みに震えている。吐き気が込み上げてくる。


「…リアン、助かったぞ。ありがとう…」

カイが、蒼白な顔で俺に礼を言った。

マーカスは、何も言わずに、ただ呆然と俺と魔物の死骸を見比べていた。

ガイル先生は、自身の負傷も省みず、俺の肩に手を置いた。

「…よくやった、リアン。お前がいなければ、危なかった。だが…」

先生は、言葉を続けた。

「これが、戦いだ。そして、これが命を奪うということの『重さ』だ。決して、忘れるな」


帰り道、俺たちはほとんど無言だった。

俺の頭の中では、何度もあの光景が繰り返されていた。風の刃が魔物の眼に吸い込まれていく瞬間。魔物の断末魔の叫び。溢れ出る体液の感触まで、まるで手に取るように思い出せる。


訓練とは違う。模擬戦闘とも違う。

あれは、紛れもない「殺害」だった。

相手が魔物であったとしても、俺は、確かに一つの命を奪ったのだ。


(これが、俺が求めていた力の結果なのか…?)


守るために、力を求めた。だが、その力は、いとも簡単に命を奪う凶器にもなる。

その事実が、鉛のように重く俺の心にのしかかった。


学院に戻り、自室のベッドに倒れ込んでも、震えは止まらなかった。

英雄的な行為でもなければ、達成感もない。ただ、冷たい恐怖と、言いようのない罪悪感だけが残った。


一つの命の重さ。

俺は、それを、この身をもって知った。

それは、どんな教科書よりも、どんな教官の言葉よりも、雄弁に、そして残酷に、この世界の現実を俺に叩きつけた。


俺の二度目の人生は、この日を境に、新たな局面を迎えることになる。

ただの成長物語では終われない、血と硝煙の匂いが纏わりつく、厳しい道のりが、この先に待っているのだと、俺は予感していた。

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