第八章:友と好敵手、そして狭間の影
ラドクリフ王立学院での生活が始まって、季節は秋から冬へと移り変わっていた。俺は、良くも悪くもこの環境に慣れ始めていた。相変わらず貴族生徒からの侮蔑的な視線を感じることはあるし、授業や訓練の厳しさも変わらない。だが、俺なりに自分の立ち位置を確立しつつあった。
地道な努力が実を結び始めたのか、魔法理論の成績は上位に食い込めるようになったし、実技でもファエラル仕込みの精密なマナコントロールが評価される場面が増えた。剣術は…まあ、依然として苦手意識は拭えないが、少なくとも無様に転げ回る回数は減った。
そして、この孤独な戦場だと思っていた学院にも、心休まる存在ができていた。寮で同室のカイだ。彼は、俺と同じく平民出身で、遠い地方の村から奨学金を得て入学した苦学生だった。無口だが実直な性格で、俺とは対照的に体術や剣術に才能を見せていた。
「…リアン、この前の魔法史の課題、少し見せてくれないか? あの古代語の解読がさっぱりで…」
ある夜、消灯時間も近い寮の部屋で、カイが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「ああ、いいぞ。代わりに、明日の剣術の訓練、少しコツを教えてくれ。どうも俺は、踏み込みが甘いらしい」
「任せろ」
俺たちは、互いの得意分野を教え合い、難しい課題があれば協力して乗り越えた。時には、こっそり持ち出したパンを分け合いながら、将来の夢や、鼻持ちならない貴族生徒への愚痴をこぼし合った。エリーナやロルフとは違う、同年代の、利害関係のない(少なくとも今は)友人。その存在は、慣れない学院生活の中で、大きな支えとなっていた。カイは、学院内の噂話にもいくらか通じており、「あの教官は特定の派閥に属しているらしい」とか、「あの生徒は最近素行が悪いと目をつけられている」など、俺が知らない情報をもたらしてくれることもあった。
一方で、明確な「好敵手」と呼べる存在も現れた。マーカス・フォン・ヴァルター。有力な伯爵家の次男で、入学当初から俺を「田舎者」と見下していた、あの典型的な貴族生徒だ。彼は、恵まれたマナ量と家柄に裏打ちされた自信を持ち、特に攻撃魔法の威力においては、学年でもトップクラスの実力を持っていた。
魔法実技の模擬戦闘訓練。俺は、運悪く(あるいは教官の意図か)マーカスと組まされることが多かった。
「おい、リアンとか言ったな。せいぜい俺の魔法の的にならないよう、しっかり防御くらいはしろよ、平民」
訓練開始前、マーカスは必ずと言っていいほど、そんな挑発を仕掛けてくる。
俺は言い返さず、ただ冷静にマナを練り上げる。彼の放つ苛烈な火球や風の刃を、最小限のマナで構築した防御障壁で受け流し、あるいは的確なタイミングで回避する。そして、一瞬の隙を突いて、地味だが精密な制御を要する魔法(例えば、相手の足元だけを凍らせる、視界を眩ませる光を放つなど)で反撃する。
派手さはないが、効率と精度を重視する俺の戦い方は、力で圧倒しようとするマーカスとは対極的だった。彼は俺の戦法を「小賢しい」「卑怯だ」と罵るが、訓練の勝敗では五分、あるいは俺の方がやや優勢になることすらあった。その事実は、彼のプライドを酷く傷つけるらしく、訓練が終わるたびに、彼は忌々しげな視線を俺に向けてくるのだった。
(面白い…)
彼との競争は、俺の闘争心に火をつけた。ファエラルとの訓練は、常に絶対的な上位者に対する挑戦だったが、マーカスとのそれは、同レベル(総合的に見れば、だが)の相手との、技術と精神力のぶつかり合いだ。彼に勝ちたい、という思いが、俺を更なる鍛錬へと駆り立てた。
友との穏やかな時間。好敵手との切磋琢磨。学院生活は、それなりに充実していると言えた。
だが、その一方で、俺はこの学院の陽の当たる場所だけではない、「何か」の存在を感じ始めていた。
きっかけは、些細なことだった。
ある夜、自習のために閉館間際の図書館に残っていた時のことだ。書架の陰で、上級生らしき数人が、声を潜めて話しているのが聞こえた。断片的にしか聞き取れなかったが、「…禁断の召喚術…」「…公爵派の動きが…」「…古い地下遺跡…」「…見つかったら退学じゃ済まない…」といった、不穏な単語が耳に残った。俺が気づいた気配を察したのか、彼らはすぐに口をつぐみ、足早に去っていった。
またある時は、特定の貴族生徒に対する教官の、明らかに不自然な贔屓を見た。逆に、些細なことで厳しい罰則を受ける平民生徒もいる。まことしやかに囁かれる、「不可解な理由で退学処分になった生徒」の噂。夜中に、寮の近くで怪しい人影を見たというカイの話。
一つ一つは取るに足らないことかもしれない。だが、俺の、前世での経験に裏打ちされた疑り深い精神は、それらの断片を結びつけ、水面下で何かが動いているのではないか、という疑念を増幅させていた。この学院は、ただの教育機関ではない。王国の中枢に人材を送り出すこの場所は、それ自体が、政治的な駆け引きや、あるいはもっと暗い何かの舞台になっているのではないか?
俺は、カイにそれとなく探りを入れてみた。
「なあ、カイ。この学院って、何か変な噂とかないか?」
「変な噂? まあ、古い建物だからな、幽霊が出る、とか、そういう話はよく聞くけど…」
カイは少し考え込んだ後、声を潜めて言った。
「…でも、そういえば、特定の貴族の派閥が、学院内で勢力争いをしてるって話は聞いたことがあるな。教官の中にも、その息がかかった人がいるとかいないとか…あんまり深入りしない方がいいと思うぜ、リアン」
カイの言葉は、俺の疑念をいくらか裏付けるものだった。だが、全容は全く見えない。それはまるで、明るい舞台の袖に広がる、深い影のようだ。
友と語らい、笑い合う時間。好敵手と競い合い、互いを高め合う時間。それは確かに、この学院生活の光の部分だ。しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
俺は、この学院で知識と力を得るだけでなく、この「狭間の影」にも注意を払わなければならないことを悟った。それは、俺が求める力の、あるいは俺自身の存在意義の、新たな試練となるのかもしれない。
夜風が、寮の窓をカタカタと鳴らした。俺は、インクと汗の匂いだけでなく、もっと別の、得体のしれない気配がこの学院に漂っているのを感じながら、静かに思考を巡らせるのだった。