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第七章:インクと硝煙の匂い

ファエラルの指導が始まってから、三年の月日が流れた。俺は八歳になり、背も伸び、以前のひ弱さは影を潜めていた。ファエラルの容赦ない訓練のおかげで、体力、精神力、そしてマナの基礎制御能力は、同年代の子供たちと比べても、おそらく遜色のないレベルに達していた…はずだ。もちろん、師匠であるエルフからの評価は相変わらず「駑馬」の一言に尽きるのだが。


そんなある朝、ファエラルは唐突に告げた。

「リアン。お前の基礎訓練は今日で終わりだ」

「…え?」

「いつまでもこんな辺鄙な村で、俺と二人でくすぶっていても埒が明かん。お前には、もっと体系的な知識と、同年代との競争が必要だ。…というわけで、お前をラドクリフの学院に入学させることにした」

「が、学院…ですか?」

ラドクリフは、以前『彼女』と出会った、あの町よりもさらに大きな都市の名だ。そして、そこにあるという学院は、この地方で最も歴史と権威のある教育機関だと聞く。貴族や裕福な商人の子弟が多く学ぶ場所だ。


話は既に両親にも通っていたらしい。エリーナは涙ぐみ、ロルフは無言で俺の肩を強く叩いた。寂しさはあったが、俺の心はそれ以上に、未知なる環境への期待と、僅かな不安で高鳴っていた。ファエラルとの過酷だが濃密だった日々が終わりを告げ、新たなステージが始まるのだ。


ファエラルに連れられ、俺は再び旅に出た。今度は、ただの町ではなく、都市へ。数日間の旅路の果てに見えてきたラドクリフの街並みは、以前訪れたどの町よりも壮大で、活気に満ちていた。そして、その一角に聳え立つように存在する石造りの巨大な建造物群。高い塀に囲まれ、荘厳な門構えを持つそこが、俺がこれから通うことになるラドクリフ王立学院だった。


入学手続きは、ファエラルが有無を言わせぬ態度で半ば強引に進めた。推薦状か何かがあったのか、あるいは彼女自身の(おそらく悪名高いであろう)名声が効いたのか、俺のような村出身の平民が、比較的すんなりと入学を許可されたのは驚きだった。簡単な口頭試問とマナ感知のテストが行われたが、ファエラルの訓練のおかげか、どうにか基準は満たしたようだった。周りには、明らかに上流階級とわかる親子連れが多く、彼らが俺とファエラル(特にその粗野な態度)に向ける、好奇と侮蔑が入り混じった視線が痛かった。


俺は、平民向けの簡素な寮の一室を与えられた。ファエラルは、「せいぜい問題を起こさんことだな。まあ、お前に期待するだけ無駄か」と最後まで毒を吐き、風のように去っていった。三年間、ほぼ毎日顔を合わせていた存在がいなくなり、寂しさよりも先に、奇妙な解放感を覚えたのを覚えている。


学院での生活は、想像以上に規律正しく、そして目まぐるしかった。


朝早くに起床し、点呼と体操。午前中は座学が中心だ。「インクの匂い」が染みついた古い教室で、歴史、地理、数学、そして魔法理論の講義を受ける。歴史の授業では、この国の成り立ちや、過去の大きな戦争、伝説の英雄譚などが語られた。魔法理論では、ファエラルから教わった基礎を発展させ、マナの属性や、魔法陣の構成要素、古代語の呪文詠唱の基礎などを学ぶ。どれもこれも、俺の知的好奇心を強く刺激した。教官たちは、ファエラルほど個性的ではないものの、厳格で、知識も深いようだった。


クラスメイトたちの反応は様々だった。俺のような平民出身者は少数派で、多くは貴族や富裕層の子弟だ。彼らの中には、あからさまに俺を見下す者もいれば、無関心を装う者、あるいは珍しさからか、逆に興味を持って話しかけてくる者もいた。俺は、前世の経験を活かし(?)、当たり障りなく、しかし観察は怠らない、という処世術で乗り切ろうと試みた。


そして午後。空気は一変する。「硝煙の匂い」――それは比喩だが、まさしくそんな言葉が相応しい、実践的な訓練の時間だ。広い訓練場では、剣術や体術の基礎訓練が行われる。打ち合う剣の金属音、荒い息遣い、教官の鋭い号令。俺は、ファエラルにしごかれたおかげで体力には多少自信があったが、剣の扱いは素人同然だった。重い木剣に振り回され、何度も無様に転がされた。


別の訓練場では、魔法の実技が行われる。防御障壁の展開、簡単な攻撃魔法(火球や風の刃など)の詠唱と制御、マナ感知能力の向上訓練など。ここでは、ファエラル仕込みの地道なマナコントロール訓練が活きた。派手さはないが、他の生徒よりも精密な制御ができることがあり、魔法教官からは少しだけ評価された。しかし、実戦形式の模擬戦闘となると、途端に経験不足が露呈する。呪文の詠唱中に懐に飛び込まれたり、相手の陽動に引っかかったり。汗と土埃、そしてマナがぶつかり合う際に発生する独特の焦げたような匂いが、訓練場には常に満ちていた。


もちろん、人間関係も一筋縄ではいかない。寮の同室の少年は、無口だが気のいい奴だった。一方で、貴族の生徒の中には、事あるごとに俺の出自をあげつらい、絡んでくる者もいる。学院内には、厳然たる身分差と、それに基づく派閥のようなものが存在しているようだった。


(…面倒な世界だ。だが、面白い)


寮の自室の窓から、夜の学院を見下ろしながら、俺はそう思った。

ここは、インクの匂いが染みついた知の探求の場であり、同時に、硝煙の匂いが漂う生存競争の場でもある。村での生活や、ファエラルとの一対一の訓練とは全く違う、複雑で、刺激的で、そして危険な場所だ。


プレッシャーは大きい。だが、それ以上に、ここで得られるであろう知識と経験への期待が大きい。俺が求める力――大切なものを守るための力は、きっとこの場所で見つけられるはずだ。


俺は、ラドクリフ王立学院という、新たな戦場に足を踏み入れたのだ。

この匂いの中で、俺はどこまで行けるだろうか。

静かな決意を胸に、俺は来るべき明日に備え、眠りについた。

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