第五章:家庭教師は口の悪いエルフ
俺が両親に「勉強がしたい」と告げてから、ひと月ほどが過ぎたある日のことだった。その「家庭教師」は、何の前触れもなく、まるで嵐のように俺たちの質素な家にやって来た。
昼食を終え、家の前の日だまりでぼんやりと空を眺めていた俺の耳に、不意に甲高い声が飛び込んできた。
「おい、誰かいるか! ロルフとかいう鍛冶屋の家はここで合っているんだろうな!」
声のした方を見ると、そこには見慣れない人影が立っていた。すらりとした長身に、尖った耳。陽光を浴びて白金に輝く長い髪。間違いなく、エルフだ。この村では極めて珍しい。彼女は、旅慣れた様子の革鎧に身を包み、腰には細身の剣を帯びていた。しかし、その美しい外見とは裏腹に、顔にはありありと不機嫌そうな色が浮かび、言葉遣いは驚くほど乱暴だった。
慌てて家から出てきたエリーナと、ちょうど昼休憩で戻っていたロルフも、その姿を見て少し驚いたようだった。
「あ、あの…どちら様でしょうか?」
エリーナがおずおずと尋ねる。
エルフは、俺たち親子を値踏みするように一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
「ファエラルだ。依頼を受けて、ガキ…いや、坊主の家庭教師をしに来てやった。あんたたちがエリーナとロルフだな?」
ファエラルと名乗ったエルフは、尊大な態度で言った。
(…この人が、家庭教師?)
俺は内心、唖然とした。もっと、穏やかで学者然とした人物を想像していたのだ。目の前にいるのは、どう見ても冒険者か傭兵といった風情の、しかもとんでもなく口の悪いエルフだ。
エリーナとロルフは顔を見合わせたが、ロルフが一つ咳払いをして前に出た。
「は、はい。私がロルフです。こちらは妻のエリーナと、息子のリアン…その、家庭教師をお願いした者です。遠路はるばる、ありがとうございます、ファエラル様」
「様はいらん。ファエラルでいい。で、そのガキがリアンか」
ファエラルの鋭い、しかしどこか冷めた緑色の瞳が俺を射抜いた。まるで、虫でも見るかのような目だ。
「ふん。見たところ、ただの凡庸な人間のガキだな。本当にこいつに魔法やら何やらを教える価値があるのかね?」
「こ、この子は、とても聡明で…」
エリーナが慌てて付け加えようとするが、ファエラルは手をひらひらさせて遮った。
「母親の欲目なんぞ、聞く価値もない。まあいい、依頼は依頼だ。金さえ貰えれば、最低限のことは教えてやる。だが、言っておくぞ。俺のやり方は厳しい。泣き言を言っても、一切容赦はせんからな」
そう言い放つと、ファエラルはズカズカと家の中に入り込み、一番良い椅子(といっても、古びた木製の椅子だが)にどっかりと腰を下ろした。
(…とんでもないのが来たな)
俺は、これから始まるであろう日々に、早くも暗澹たる気持ちになっていた。
ファエラルの授業は、翌日から早速始まった。そして、それは俺の想像を遥かに超えて過酷なものだった。
「まず、お前の現状把握からだ。立て」
朝食もそこそこに、家の外に連れ出された俺は、ファエラルに命令された。
「いいか、これから俺が言うまで、片足で立っていろ。少しでもふらついたら、やり直しだ」
「え…」
「返事は『はい』だ、この駑馬!」
「は、はい!」
片足立ちなど、すぐにふらつくに決まっている。案の定、数秒も保たずにバランスを崩した。
「やり直し」
冷たい声が響く。何度も繰り返すうちに、足は棒のようになり、汗が噴き出してきた。
「次はこれだ。この石を、あそこの木の幹に当ててみろ」
ファエラルは、手のひらほどの石を俺に渡した。距離は十メートルほど。
「…はい」
俺は、第四章でギドたちを驚かせた「水切り」の要領を思い出し、石を投げた。しかし、水面とは違い、ただの石投げではなかなか狙い通りにはいかない。石は的を大きく外れ、地面に転がった。
「…才能がないな。まあいい、当たるまで続けろ」
午前中は、そうした基礎体力と集中力を養う(という名目の、しごきに近い)訓練が延々と続いた。昼食を挟み、午後は座学だ。
「まず、文字の読み書きからだ。まさかとは思うが、自分の名前も書けん、などということはないだろうな?」
幸い、エリーナが簡単な文字は教えてくれていた。俺は、ファエラルが差し出した石板に、おぼつかない手付きで自分の名前を書いた。
「…ふん、ミミズが這ったような字だな。まあ、読めなくはないか。いいか、今日中にこの基本単語を全て覚えろ。明日、テストをする。一つでも間違えたら、罰として腕立て伏せ百回だ」
渡されたのは、見たこともない単語がびっしりと書かれた羊皮紙だった。この世界の基本的な語彙なのだろう。量が尋常ではない。
そして、ようやく魔法の基礎に関する授業が始まった。俺が最も期待していた分野だ。
「いいか、リアン。マナというのはな、そこら中に満ちている、世界の構成要素の一つだ。それを体内に取り込み、練り上げ、特定の形と思念を乗せて外部に放出する。それが、いわゆる魔法の基本原理だ」
ファエラルは、珍しく真面目な顔で説明を始めた。
「だがな、お前のような未熟者には、まず自分の中にあるマナを感じ、それを制御することから始めねばならん。目を閉じろ。意識を自分の内側に集中させろ。腹の底…そうだな、へその少し下あたりに、温かいような、微かに脈打つような感覚があるはずだ。それを見つけろ」
言われた通りに、意識を集中させる。以前から感じていた、あの微かな流れ。ファエラルの誘導に従い、それを探る。
(…これか?)
確かに、腹部の中心あたりに、他の場所とは違う、密度の高いエネルギーのようなものを感じる。
「感じたか? よし、では次に、そのマナをゆっくりと、右手の指先まで移動させてみろ。焦るな、少しずつだ。体内の水路を水が流れるようなイメージで…」
俺は、全神経を集中させて、腹部のマナを腕へと送ろうと試みた。だが、それは粘性の高い泥のように重く、なかなか動かない。額に汗が滲む。
「…遅い! なにをもたついている! そんなことでは、一生かかっても火種一つ起こせんぞ!」
ファエラルの罵声が飛ぶ。焦れば焦るほど、マナは言うことを聞かなくなる。
結局、その日はマナを指先まで到達させることすらできなかった。授業が終わる頃には、俺は心身ともに疲労困憊していた。
「…ふん、初日はこんなものか。予想通り、才能のカケラも感じられんな」
ファエラルは、忌々しげに吐き捨てた。
「だが、一度引き受けたからには、最低限の仕事はしてやる。明日も同じ時間からだ。遅れるなよ」
そう言って、彼女は村の小さな宿屋へと帰っていった。おそらく、俺の両親が手配したのだろう。
一人残された俺は、泥のように重い身体を引きずって家に入った。エリーナが心配そうな顔で駆け寄ってきたが、俺は「大丈夫」と力なく答えるのが精一杯だった。
(…とんでもない人を家庭教師にしてしまった)
後悔に近い感情が胸をよぎる。あのエルフの下で、俺は本当に成長できるのだろうか。
だが、同時に、ほんの僅かな手応えも感じていた。
あの、腹部のマナの感覚。ファエラルの言葉は乱暴だが、その説明は的確だった気がする。そして、彼女が持つ知識の深さの一端を垣間見た気もした。
(…やるしかない、か)
俺は、前世で諦めた多くのことを思い出した。そして、今度こそ後悔しないと誓ったのだ。この程度のことでへこたれていては、話にならない。
口の悪いエルフの家庭教師。
それは、俺にとって最初の大きな壁であり、同時に、未知の世界への扉を開くための、唯一の鍵なのかもしれない。
俺は、差し出された温かいスープを黙って口に運びながら、明日からの厳しい日々に、改めて覚悟を決めるのだった。