第四章:幼年期の岐路
五歳になった。もう自分の足でしっかりと歩き回り、言葉もかなり流暢に操れるようになった。もちろん、発音や語彙にはまだ幼さが残るが、両親との意思疎通はほぼ問題ない。行動範囲も広がり、家の周りだけでなく、村の広場や小川の辺りまで、一人で(もちろん、大人の目が届く範囲ではあるが)遊びに行くことも許されるようになった。
そこで俺は、必然的に他の村の子供たちと顔を合わせることになった。彼らはいつも数人で集まり、泥まみれになって駆け回ったり、木切れを剣に見立てて打ち合ったり、あるいは単純な鬼ごっこのような遊びに興じたりしていた。
俺は最初、少し離れた場所から彼らを観察していた。群れには、自然とリーダー格の少年がいる。ガキ大将、というやつだ。名を確かギドと言ったか。体格が良く、声が大きい。他の子供たちは、彼に従ったり、時には反発したりしながらも、一つの集団を形成している。
(…幼稚だ)
それが、彼らの行動を分析した俺の率直な感想だった。前世の記憶を持つ俺からすれば、彼らの行動原理は単純明快で、感情の起伏も激しい。だが同時に、どこか眩しくもある。悩みなど何もなく、ただ今を全力で生きているように見えたからだ。
しばらく観察を続けた後、俺も意を決してその輪に加わってみることにした。情報収集のためにも、この世界の子供社会を知っておく必要はある。それに、いつまでも一人でいては、かえって不自然だろう。
「…俺も、混ぜてくれないか?」
おずおずと声をかけると、子供たちは一斉に動きを止め、好奇と若干の警戒が入り混じった目で俺を見た。特にリーダー格のギドは、品定めするように俺を上から下まで眺めた。
「なんだ、お前。ロルフんとこの…ええと、リアンか?」
「ああ」
「ふん。まあ、いいぜ。ちょうど人手が足りなかったんだ」
ギドは偉そうに顎をしゃくった。遊びは、単純な陣取り合戦のようなものだった。二手に分かれ、広場の中心に立てた木の棒を先に奪い合った方が勝ち。俺はギドとは別のチームに入れられた。
始まってみると、俺はこの手の遊びがいかに不得手であるかを痛感させられた。まず、体格で劣る。同じ年頃とはいえ、日頃から外で駆け回っている彼らに比べ、俺の身体はまだ華奢だ。さらに、彼らの動きは予測不能で、連携も(子供なりに)取れている。俺はと言えば、どうしても頭で考えてしまい、動きがワンテンポ遅れるのだ。
「おい、リアン! ぼさっとするな!」
「ちゃんと走れよ!」
味方の子供たちから容赦ない罵声が飛ぶ。結局、俺たちのチームはあっさりと負けた。原因の一端が俺にあるのは明らかだった。
「ちぇっ、使えねえな、お前」
ギドが、俺の胸を軽く小突いてきた。カチンときた。いくら子供相手とはいえ、馬鹿にされるのは気分が悪い。
「…考えなしに突っ込むだけが能じゃないだろう」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。前世の、やや理屈っぽい性格が顔を出したのだ。
途端に、ギドの顔色が変わった。「あんだと、こら!」
彼は俺に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってきた。まずい、と思ったが、もう遅い。周囲の子供たちも、面白そうに、あるいは少し怯えたように俺たちを遠巻きにしている。
「やんのか、ああ?」
「…別に、そういうわけじゃ」
「じゃあ、なんだ! 俺のやり方が気に入らねえってのか!」
完全に売り言葉に買い言葉だ。だが、ここで引き下がれば、今後このコミュニティでまともに扱ってもらえなくなるだろう。それは避けたい。
「…力任せだけじゃ、勝てない時もある、と言っただけだ」
「へえ、じゃあお前ならどうするってんだよ!」
「それは…」
言葉に詰まった。具体的な対案など、咄嗟に思いつくはずもない。その逡巡が、ギドをさらに苛立たせた。
「口だけかよ!」
ドンッ、と強く突き飛ばされた。バランスを崩し、尻餅をつく。土埃が舞い、周囲からクスクスと笑い声が漏れた。顔が熱くなる。屈辱。忘れていた感覚だ。大人としてのプライドが、子供の暴力によって無残に打ち砕かれた。
ギドは勝ち誇ったように俺を見下ろし、「ふん、やっぱり使えねえ」と吐き捨てて、仲間たちと別の遊びを始めてしまった。俺は、しばらく呆然と地面に座り込んでいた。
(…これが、子供の世界か)
理屈は通じない。力が、あるいは場の空気を支配する者が、正義となる。なんと未熟で、なんと厄介な社会だろう。だが、ここで打ちひしがれているわけにはいかない。このままでは、俺の評価は「口だけの使えない奴」で確定してしまう。
俺は立ち上がり、服についた土を払いながら、思考を巡らせた。ギドに力で勝つのは難しい。だが、彼にも弱点はあるはずだ。観察した限り、彼は短気で、挑発に乗りやすい。そして、動きが大振りで、やや単調だ。
数日後、再び子供たちが集まっている場面に出くわした。今度は、小川で石投げ遊びをしている。誰が一番遠くまで石を投げられるか、という単純な競争だ。当然、一番飛ばすのはギドだった。
俺は黙って川岸に近づき、手頃な大きさの、平たくて丸い石を探した。そして、他の子供たちが投げているのを横目に、前世で朧げに聞きかじった「水切り」の要領を思い出しながら、投げる角度と回転をイメージした。
「…お、リアンじゃねえか。また来たのかよ」
ギドが、にやにやしながら声をかけてきた。
「今度は見てるだけか? それとも、また口だけ出すのか?」
周囲の子供たちも笑う。
俺は何も答えず、選んだ石を手に、川面に向かって腰を落とした。そして、イメージ通りに、腕をしならせ、手首のスナップを効かせて石を投げた。
シュッ、という小気味よい音と共に、石は水面を跳ねた。一、二、三、四…五回。そして、他の誰よりも遠く、対岸近くまで届いた。
一瞬、静寂が訪れた。
子供たちは、唖然として水面と俺の顔を交互に見ている。ギドも、口を開けたまま固まっていた。
「…す、すげえ…」
誰かが呟いた。
俺は内心でほくそ笑みながらも、表情には出さず、平然と言った。
「…力だけじゃない。やり方次第だ、と言っただろう?」
ギドは顔を赤くして何か言い返そうとしたが、言葉にならないようだった。他の子供たちは、感心したように俺の周りに集まってきた。
「なあ、今のどうやったんだ?」
「教えてくれよ!」
この一件で、俺に対する子供たちの評価は少し変わったようだった。相変わらずギドとの間に微妙な緊張感は残ったが、以前のように一方的に馬鹿にされることはなくなった。そして俺自身も、この小さな成功体験から、一つの教訓を得た。
(やはり、知識や知恵は力になる。だが、それを活かす術を知らなければ意味がない)
そして、この出来事は、俺に別のことを考えさせるきっかけにもなった。
村での日々。父親が汗水流して鉄を打つ姿。母親がマナを使って家事をこなす様子。そして、村の子供たちが、いずれ親の仕事を手伝い始めるであろうこと。
俺は、どうする?
このまま、この村で、平凡な一生を送るのか? ロルフのように鍛冶屋になる? あるいは、他の仕事を探す?
(いや、違う)
俺には、前世の記憶がある。そして、この世界には「魔法」という、未知の可能性がある。俺の中にも、その源であるマナが確かに存在している。これを、探求せずにはいられない。
鍛冶屋の仕事も尊い。村の生活も温かい。だが、俺が本当に求めるものは、ここにはない気がした。もっと広い世界を、もっと深い知識を。そして、マナを自在に操る力を。
(このままでは、駄目だ)
漠然としていた思いが、明確な輪郭を持ち始めた。俺は、学ばなければならない。それも、村の子供たちが受けるような、生活のための教育ではなく、もっと専門的な知識と技術を。特に、魔法に関するそれを。
ある晩、俺は意を決して両親に切り出した。
「父さん、母さん。俺、もっと勉強がしたい。特に、魔法のことを」
二人は驚いた顔をしたが、やがて何かを察したように、穏やかな表情で頷いた。
「…そうか。お前がそう言うなら」
「あの子のことだから、いつか言い出すと思っていたわ」
どうやら、両親は俺の内に秘めた何かを、薄々感じ取っていたのかもしれない。
幼年期の終わり。
俺は、自らの意思で、最初の岐路に立った。
それは、温かい村の生活から一歩踏み出し、未知の世界へと続く道を選ぶ、という決断だった。