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第三章:知らなかった温もり

ハイハイができるようになり、お座りも安定してきた。生後一年が過ぎた頃だろうか。俺の世界は、以前とは比べ物にならないほど鮮明になっていた。視界はクリアになり、遠くの景色もぼんやりとだが認識できる。音も、単なる響きではなく、より多くの「言葉」として、その意味合いと共に脳に蓄積されつつあった。だが、それ以上に大きな変化は、俺自身の内面に訪れていた。


この質素な木の家での生活は、相変わらず単調といえば単調だ。朝、鳥の声と共に目覚め、母親――名をエリーナという――の腕の中で温かい乳(最近は、すり潰した野菜や柔らかく煮た穀物のようなものも混じるようになった)をもらう。日中は、家事や畑仕事に勤しむ彼女の傍らで、部屋の中を這い回ったり、与えられた木の積み木を無意味に打ち鳴らしたりして過ごす。そして夜、父親――ロルフという名らしい――が仕事から戻り、家族三人の食事が始まる。その後は、暖炉の火を見つめながら、両親の穏やかな会話(まだ半分も理解できないが)を聞き、やがて母親の腕の中で眠りに落ちる。


前世、田中健二として生きた三十五年間のどの瞬間よりも、今の俺は「生きている」という実感を得ていた。それは、決して快適だからではない。むしろ逆だ。床は硬く、冬は隙間風が寒い。食事も、前世の飽食に比べれば質素極まりない。それでも、だ。


理由は分かっている。この、身に余るほどの「温もり」のせいだ。


エリーナは、本当に良く俺の世話を焼いてくれる。彼女の手は少し荒れているが、俺に触れる時はいつも驚くほど優しい。汚れた服(と言っても、継ぎ接ぎだらけの粗末な布だが)を替え、身体を拭き、そして、意味は分からずとも心地よい響きのする子守唄を歌ってくれる。彼女が俺に向ける笑顔は、打算も計算もない、純粋な愛情に満ちているように見えた。


(…こんな風に、誰かに無条件で愛されたことなんて、あっただろうか)


前世の母親の顔を思い出そうとするが、靄がかかったように朧気だ。決して仲が悪かったわけではない。だが、彼女はいつも忙しそうで、俺が何かを成し遂げた時以外に、あんな風に純粋な喜びの表情を見せてくれた記憶は、ほとんどなかった。成人してからは、連絡も年に数回程度。どこか、互いに遠慮し合っているような、そんな距離感があった。


だが、エリーナは違う。俺が初めて「まんま」と発した時(それはほとんど偶然の産物だったのだが)、彼女は涙ぐんで喜んだ。俺が初めてハイハイで彼女の足元まで辿り着いた時、彼女はまるで自分のことのように誇らしげな顔をした。その一つ一つが、前世で欠落していた何かを、俺の心の中に静かに満たしていくのを感じていた。最初は戸惑いが大きかった。こんな温かさに慣れてしまっていいのか、と。だが、毎日毎日、太陽が昇るように当たり前に注がれる愛情に、俺の心はゆっくりと絆されていった。


父親のロルフは、エリーナほど表情豊かではない。彼は村の鍛冶屋らしく、日中は工房で槌を振るっているようだ。夕方、煤と汗の匂いをさせて帰ってくる彼は、口数も少ない。だが、彼なりの愛情表現があることを、俺は学んでいた。


俺を抱き上げる彼の手は、ゴツゴツとしていて皮が厚いが、驚くほど安定感がある。エリーナの腕の中とは違う、絶対的な安心感。時折、無言で俺の頭をくしゃり、と撫でる大きな手。言葉は少なくとも、その眼差しは常に穏やかだ。彼が仕事の合間に削ってくれたのだろう、歪だが滑らかな手触りの木の動物は、俺のお気に入りの玩具になった。


前世の父親は、典型的な昭和の男だった。寡黙で、厳格で、家庭のことは母親に任せっきり。彼に褒められた記憶はほとんどない。彼が何を考えているのか、最後までよく分からなかった。だが、ロルフには、不器用ながらも確かな温かさを感じる。この太い腕が、この家族を守っているのだという、漠然とした信頼感があった。


この家もそうだ。土壁と粗末な木材で作られた、小さな家。家具も必要最低限。だが、ここには常に生活の匂いが満ちている。暖炉の薪がはぜる音、エリーナが鍋をかき混ぜる音、窓から差し込む柔らかい陽光、煮込み料理と木の匂いが混ざった、独特の香り。前世で住んでいた、綺麗だが無機質なマンションの一室よりも、よほど「帰る場所」という実感が湧いた。


(ここが、俺の『家』なのか…)


その認識は、俺の中に静かだが確かな変化をもたらした。


言語の習得も、僅かながら進歩を見せていた。「まんま」「ぱーぱ」に続き、「あっち」「これ」といった指示語らしきものや、簡単な要求(例えば、乳が欲しい時に「ぱい」)を、たどたどしいながらも発することができるようになった。その度にエリーナとロルフは喜び、根気よく正しい(と思われる)言葉を教えてくれる。彼らの喜びが、俺の学習意欲をさらに刺激した。大人の精神を持つ俺にとって、赤子の発音器官を操るのはもどかしい作業だが、コミュニケーションが取れるようになるメリットは計り知れない。情報を得るためにも、この世界の理を理解するためにも、言語の習得は最優先事項の一つだった。


そして、マナ。この家では、エリーナが日常的に「魔法」を使っているようだった。ランプに火を灯すだけでなく、飲み水を浄化したり、少量の水を温めたり、あるいは怪我をした指先に淡い光を当てて治癒を促したり。どれも大規模なものではなく、生活に根差した、ささやかな奇跡。


俺は、彼女が魔法を使う瞬間、意識を集中して自分の中のマナの流れを感じるように努めた。やはり、外部のマナの動きに呼応するように、体内の流れが微かに揺らぐのを感じる。まるで、調律されていない楽器が、近くで鳴らされた音に共鳴するかのようだ。


(これを、自分で制御することはできないのか…?)


何度か試してみた。例えば、目の前にある小さな木屑を念じるだけで動かせないか、と。あるいは、自分の手のひらに、エリーナがやるような淡い光を灯せないか、と。だが、結果は芳しくない。体内のマナは、俺の意思に反応して僅かに揺らぐような気はするものの、具体的な形となって外部に現れることはなかった。


(…やはり、系統立った訓練が必要なのかもしれないな)


前世の知識が通用しない分野だ。焦りは禁物。今は観察と、基礎体力作り(ハイハイや掴まり立ちも、重要な訓練だ)に専念すべきだろう。


ある日、エリーナに抱かれて、初めて「村」と呼べる場所に出かけた。石畳の道(というほど立派なものではないが)、木造の家々、井戸端で談笑する女性たち、元気に走り回る子供たち。誰もが、俺たち家族を見ると、気さくに声をかけてきた。


「あら、エリーナさん。坊や、大きくなったねぇ!」 「ロルフによろしくな!」


エリーナも笑顔で応じ、短い会話を交わす。それは、前世の都会では感じたことのない、濃密なコミュニティの空気だった。誰もが互いを知り、助け合って生きている。そんな温かさが、村全体を包んでいるように感じられた。


(ここには、俺が失っていたものが、全てあるのかもしれない…)


その日の帰り道、ロルフの大きな背中に背負われながら、俺はぼんやりと考えていた。 最初は、ただ生き延びること、二度目の人生で後悔しないことだけを考えていた。だが、この温もりに触れて、考えが変わってきた。 エリーナの笑顔。ロルフの無言の信頼。この質素だが温かい家。村の人々の気さくな声。 これらは全て、前世の俺が手に入れることができなかった、あるいは、その価値に気づかずに手放してしまったものたちだ。


(守りたい、と…思った)


それは、驚くほど自然に湧き上がってきた感情だった。 この温もりを、このささやかな幸せを、失いたくない。この人たちを、悲しませたくない。 そのためには、力が必要だ。知識も、体力も、そして、この世界独自の力である「マナ」を操る力も。


単なる自己満足の「成り上がり」ではない。大切なものを守るための力が欲しい。 三十五年の灰色の人生を送った末に、ようやく見つけた、確かな目標。


夕暮れの空が、暖炉の火のように赤く染まっていた。ロルフの背中の温かさと、規則正しい振動が心地よい。俺はゆっくりと目を閉じた。体内のマナが、穏やかに流れているのを感じる。それはもはや、異物ではなく、俺自身の一部となりつつあった。


知らなかった温もりが、俺の中で確かな決意へと変わり始めていた。 二度目の人生は、まだ始まったばかりだ。

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