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第二章:マナの囁き、最初の言葉

季節が一巡りしたのか、あるいは数ヶ月が過ぎたのか。赤子である俺に、正確な時間の経過を知る術はない。ただ、繰り返される「寝て、起きて、乳を飲み、排泄して、泣く」という単調なサイクルの中で、世界は僅かずつだが輪郭をはっきりさせ始めていた。


最初は滲んだ絵の具のようだった視界も、今ではすぐ近くにあるものなら、ぼんやりと形を捉えられる。特に、俺を抱き上げ、世話をしてくれる存在――この世界の「母親」であろう女性の顔は、比較的鮮明に見えるようになってきた。柔らかそうな栗色の髪、青い瞳。前世の記憶にある誰とも似ていないが、その眼差しには常に温かな色が宿っている。


そして、音。最初は意味不明なノイズの洪水だったものが、少しずつ「言葉」として認識できるようになってきた。もちろん、意味はまだ分からない。だが、特定の音の響きが、特定の状況や人物と結びついていることに気づき始めたのだ。


母親が俺をあやす時に発する「あーうー」という音とは違う、もっと明確な響き。彼女が俺に乳を与える時、決まって「まーま、まんま」というような音を発する。俺を覗き込む大きな男――おそらく「父親」だろう――が現れると、母親は「ぱーぱ」という音を口にする。


(なるほど…これが、この世界の言語か)


内心で頷く。前世で培った知識――言語習得のプロセスに関する記憶が、赤子の脳で必死にパターンを解析しようとしていた。まるで、未知の言語の暗号解読だ。聞き取りはできても、発音はできない。伝えたいことは山ほどあるのに、表現する手段がない。このもどかしさたるや! 歯がゆさで身悶えすれば、母親は「あらあら、ご機嫌ななめ?」と、やはり理解不能な言葉で俺をあやすのだった。


(いや、焦るな。赤ん坊の身体だ。今はインプットに徹する時だ)


自分に言い聞かせる。そして、もう一つ、意識を集中させていることがあった。 第一章で感じた、身体の内側を流れる微かな「何か」。あれから常に意識を向けているのだが、やはりそれは存在する。血液の流れとは明らかに違う、もう一つの循環。それは普段は静かに淀んでいるようだが、時折、ふとした瞬間に脈動するような感覚がある。特に、感情が昂った時――例えば、空腹で泣き叫んでいる時や、逆に母親に抱かれて安心感を覚えている時に、その流れが強まる気がした。


(これが、あの時感じた『マナ』というやつか…?)


確証はない。だが、直感がそう告げている。前世の知識には存在しない概念だが、この世界では当たり前のものなのかもしれない。


ある夜のことだ。部屋の明かりは、壁に掛けられた簡素なオイルランプだけだった。母親が何か鼻歌のようなものを口ずさみながら、そのランプに手をかざした。すると、彼女の手のひらが一瞬、淡い光を帯びたかと思うと、ランプの火がふわりと灯ったのだ。


(…!)


息を呑んだ。いや、赤子の俺にはそんな器用な真似はできないが、心の中で確かに驚愕していた。 魔法だ。間違いなく、前世ではお伽話やゲームの中にしか存在しなかった力が、今、目の前で、ごく自然に行使されたのだ。 そして、彼女が「魔法」を使った瞬間、俺の中の『流れ』も微かに呼応した…気がした。まるで、外からの刺激に内なる力が引き寄せられるかのように。


(やはり、この感覚は…)


興奮が内側から込み上げてくる。同時に、新たな目標が生まれた。 この世界の言葉を覚えること。そして、この「マナ」と呼ばれる(であろう)力の正体を突き止め、扱えるようになること。


それから数日後。俺は一つの決意を固めた。 まずは、発声だ。意味のある音を、この喉から絞り出す。


(『ママ』。そうだ、まずはそれだ。母親を示すであろう、あの音を…!)


肺に空気を溜め、意識を喉に集中させる。前世の記憶を頼りに、口の形、舌の位置をイメージする。だが、赤子の声帯はあまりにも未熟で、思うように動いてくれない。


「あー…ぶぅ…」


情けない音しか出ない。それでも、諦めずに繰り返す。母親が俺の顔を覗き込んでいる。今だ。


「ん…ま…っ…」


出かかった音は、しかし、すぐに別の赤子特有の音に変わってしまう。クソッ、もどかしい! だが、その時だった。必死に「ま」の音を出そうともがいた結果、偶然にもそれに近い音が、やや不明瞭ながらも口から飛び出したのだ。


「ま…まァ!」


瞬間、母親の青い瞳が大きく見開かれた。そして、次の瞬間には、彼女は満面の笑みで俺を強く抱きしめた。


「まあ! 今、『まま』って言った? ねえ、あなた! この子ったら!」


隣で何か木片を削っていた父親も、驚いた顔でこちらを見る。母親は興奮冷めやらぬ様子で、何度も俺の頬に自分の頬を擦り寄せた。


(…ふぅ。まあいい。これも必要なステップだ)


内心でため息をつく。完全に狙い通りとは言えなかったが、結果的に「ママ」らしき音を発したことで、両親(仮)は大喜びだ。これで、俺が言葉を学習し始めているという事実は伝わっただろう。


小さな、本当に小さな一歩だ。 だが、灰色の終わりから始まったこの二度目の人生において、それは間違いなく、白紙のページに記された最初の、意味のある一文字だった。


マナの囁きはまだ遠く、言葉の海は広大だ。 それでも、俺の成り上がりは、確かに今、始まったのだ。



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