第十九章:影を追って、都市の雑踏へ
ファエラルと共に隠れ谷を出て、俺たちは再び人里を目指していた。以前のような無防備な旅ではない。ファエラルの指示の下、俺は常にマナと五感を研ぎ澄ませ、周囲の気配を探る。街道から外れた獣道を選び、夜は野営しながら、人目を避けるように移動を続けた。あの谷での修練の日々が、遠い昔のことのように感じられた。
数日後、俺たちは中規模の都市シルヴァンの郊外にたどり着いた。そこですぐに、世界の空気が変わったことを肌で感じた。以前訪れたどの町よりも、街門の警備は厳重で、武装した兵士たちの数が明らかに増えている。壁には、指名手配書のようなものがいくつも貼られており、中には、あの日学院で対峙したアルフォンスと思しき人相書きや、「禁術使用者」「体制転覆を目論む危険分子」といった文字が並んでいた。道行く人々の表情も、どこか硬く、ひそひそと交わされる会話には、不安や疑心暗鬼の色が濃く滲んでいた。
「…随分と物々しくなったものだな」
ファエラルが、吐き捨てるように言った。学院での事件が、この国全体に大きな影響を与えていることは明らかだった。
街門では、身分証の提示と、簡単な荷物検査が行われていた。俺には当然、正式な身分証などない。だが、ファエラルは少しも慌てる様子を見せず、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、衛兵に提示した。エルフの王家か、あるいはそれに準ずる機関が発行したと思しき、特殊な紋章が刻まれた通行許可証。衛兵は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに恐縮したように姿勢を正し、俺たちを無検査で通した。
(師匠は、一体何者なんだ…?)
改めて、ファエラルの素性に疑問が湧いたが、今はそれを問いただす時ではない。俺は、彼女に続いて、久しぶりの都市の雑踏へと足を踏み入れた。
街の中は、活気がないわけではないが、どこか重苦しい空気に包まれていた。俺たちは、人混みに紛れるようにして、裏路地へと進んでいく。ファエラルには、この街に目的があるようだった。やがて、彼女は古びた酒場の扉の前で足を止めた。昼間だというのに、薄暗く、怪しげな雰囲気が漂っている。
「ここで待っていろ。余計なことはするなよ」
ファエラルは俺にそう言い残し、一人で店の中へと入っていった。俺は、言われた通り、酒場の壁に寄りかかり、周囲の気配を探りながら彼女が出てくるのを待った。すれ違う人々の視線、遠くで聞こえる喧騒、様々な匂い。谷での静寂とは全く違う、情報過多な環境に、少しだけ眩暈を覚える。
一時間ほど経っただろうか。ファエラルが、わずかに険しい表情で店から出てきた。
「…行くぞ。長居は無用だ」
歩きながら、彼女は低い声で得た情報を伝えてきた。
「アルフォンスの足取りが掴めた。奴は、南方の古代遺跡地帯に向かったらしい。…おそらく、更なる力を求めてな。そして、奴らに協力している『影』…連中は、『黒曜の手』と名乗っているようだ。かなり古くから存在する組織で、禁術や古代遺物の扱いに長けているという。厄介なことこの上ないな」
さらに、ラドクリフでは、学院襲撃事件の調査を主導していた大臣が、不審な事故死を遂げたという情報もあった。黒曜の手の妨害工作か、あるいは政敵によるものか。いずれにせよ、事態は俺たちが想像していた以上に、複雑で危険な様相を呈しているようだった。
その時だった。
「…!」
俺とファエラルは、ほぼ同時に、微かな違和感を捉えた。複数の、訓練された者特有の気配。俺たちを、慎重に、しかし確実に包囲しようとしている。
「…ちっ、もう嗅ぎつけられたか」
ファエラルが舌打ちする。
「どうしますか?」
「数は多くないが、ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。…まくぞ、リアン! ついてこい!」
ファエラルは、人混みを縫うように、驚くべき速さで駆け出した。俺も必死に後を追う。背後からは、複数の足音が迫ってくる。市場の喧騒、入り組んだ路地、建物の影。俺たちは、それらを巧みに利用し、追手の視線から逃れようと試みた。ファエラルの動きには一切の無駄がなく、まるで都市そのものが彼女の庭であるかのようだ。俺は、谷で培った体術と、研ぎ澄ませた感覚を総動員して、必死に彼女の背中を追った。
何度か危うい場面があったが、ファエラルの機転と、俺のわずかな魔法による援護(足元を滑らせる、目くらましなど)によって、どうにか追手を振り切ることに成功した。俺たちは、人気のない廃倉庫に身を隠し、荒い息を整えた。
「…はあっ…はあっ…」
「油断するな。すぐにここも離れる」
ファエラルは冷静だった。
「…今の追手、おそらく『黒曜の手』の下っ端だろう。思ったよりも早く接触してきたな。我々の動きは、筒抜けなのかもしれん」
都市の雑踏は、もはや安全な場所ではなかった。情報は得られたが、同時に、俺たちが敵に捕捉されているという事実も突きつけられた。
「リアン。次の目的地は決まった。アルフォンスが向かったという、南の古代遺跡だ」
ファエラルは、俺の目を見て言った。
「奴がこれ以上力を得る前に、叩く。そして、『黒曜の手』…奴らの目的も探る必要がある」
静かな谷での修練とは違う、情報と、気配と、そして時には暴力が交錯する、新たな戦いが始まろうとしていた。
影を追う旅は、始まったばかりだ。そしてその道は、俺が想像していた以上に、険しく、危険に満ちていることを、俺はこの都市での最初の接触で、早くも思い知らされていた。
俺は、気を引き締め直し、頷いた。
どんな困難が待ち受けていようとも、進むしかないのだ。