第十八章:静寂の終わり、風雲急を告げる
谷での修練が二年目に差し掛かろうとしていた頃には、俺は自分の中のマナを、以前とは比較にならないほど意のままに操れるようになっていた。力の奔流を完全に制御するにはまだ道半ばだが、少なくとも、日常生活や基礎的な訓練において、マナが暴走する兆候はほとんど見られなくなった。精密な魔法制御、複雑な動きとの連動、そして周囲の自然マナとの調和。ファエラルの容赦ない指導の下で、俺は確実に成長を遂げていた。この静かな谷間での、ただひたすらに己と向き合う日々が、俺にとってはもはや日常となっていた。
その日常が、唐突に破られたのは、ファエラルが数日間の「偵察」から谷へ戻ってきた時だった。
いつもなら、多少の不機嫌さを漂わせながらも、落ち着いた様子で帰ってくる彼女が、その日は明らかに違っていた。衣服には戦闘の痕跡があり、その表情には、普段の皮肉めいた冷たさではなく、焦りと警戒の色が濃く浮かんでいた。
「リアン! 荷物をまとめろ。直ちに出るぞ!」
谷に足を踏み入れるなり、ファエラルは鋭い声で命じた。
「師匠? 一体何が…」
「ぐずぐずするな! 時間がない。…どうやら、この場所も、もはや安全ではなくなったらしい」
ファエラルは、忌々しげに舌打ちしながら、素早く周囲に認識阻害と痕跡消去の魔法をかけ始めた。
「追手が迫っている可能性がある。あいつら…嗅覚だけは無駄に鋭いからな」
俺は、ファエラルのただならぬ様子に、事態の深刻さを悟った。言われるままに、最低限の荷物を背嚢に詰め込む。寝具、わずかな着替え、そして杖。この谷での生活で増えたものは、ほとんどなかった。
移動の準備をしながら、ファエラルは断片的に情報を伝えてきた。
「ラドクリフは、未だ混乱の中だ。学院の襲撃事件の調査は難航し、貴族間の権力争いはさらに激化している。おまけに、逃亡したアルフォンスの残党が、新たな動きを見せているらしい。奴ら、どこかで厄介な連中と手を組んだ可能性がある」
「厄介な連中…?」
「…まだ確証はない。だが、おそらくは『影』――この国の暗部で、古くから暗躍してきた連中だろう。連中が表立って動き出すとなれば、事態はさらに面倒になる」
ファエラルの言葉は、俺に冷や水を浴びせかけるのに十分だった。アルフォンスだけでも厄介な相手だったのに、さらに根深い闇の組織が関わっている? 俺たちがこの谷で修練に励んでいる間にも、外の世界の状況は、確実に悪化していたのだ。
「いずれにせよ、これ以上ここに留まるのは危険だ。そして、貴様の基礎訓練も、一定の段階には達した。これからは、実戦の中で、その力を磨き上げていくしかない」
ファエラルは、俺の目を見て言った。その瞳には、厳しいながらも、どこか弟子を次の段階へと送り出すような、複雑な光が宿っていた。
「覚悟はいいな、リアン? これから向かうのは、この谷のような安全な場所ではない。いつ命を落としてもおかしくない、本当の戦場だ」
俺は、黙って頷いた。
この日のために、俺は鍛錬を積んできたのだ。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、ようやく動き出す時が来た、という高揚感と、自らの力を試したいという思いが勝っていた。そして何より、このまま座して待っていれば、いずれ大切なものが再び脅かされるかもしれないという危機感が、俺の背中を押していた。
「はい。覚悟は、できています」
俺たちは、泉に別れを告げ、ファエラルがかけた魔法によって、俺たちが過ごした痕跡が消えていくのを見届けた。二年近く過ごしたこの谷は、俺にとって過酷な修練場であると同時に、ある種の安らぎを与えてくれる場所でもあった。だが、感傷に浸っている暇はない。
谷を出て、再び険しい山道を進む。今度の旅は、以前のような訓練を兼ねたものではない。明確な目的と、そして常に警戒を伴う、危険な旅路だ。
「師匠、我々はどこへ?」
「まずは、情報を集める。そして、奴らの動きを探る。…場合によっては、こちらから仕掛ける必要もあるだろう」
ファエラルの声には、冷たい決意が籠っていた。
静寂の時間は終わった。
風雲急を告げるように、世界は再び俺を否応なく巻き込もうとしている。
だが、俺はもう、以前の無力な少年ではない。
この手に掴んだ力と、心に刻んだ傷痕と共に、俺は、新たなる戦いへと歩みを進める。
来るべき日に備えた鍛錬は、終わりを告げた。
これからは、その日を、自らの手で掴み取りに行くのだ。
俺たちの、反撃の狼煙が、今、上がろうとしていた。