第十七章:静寂と鍛錬、来るべき日に備え
その隠された谷間での日々は、単調でありながらも、濃密な時間の連続だった。季節が一つ、また一つと巡り、谷を覆う木々の葉が緑から黄色、そして枯れ葉へと姿を変え、やがて白い雪が全てを覆い隠す。俺の生活は、泉での瞑想、ファエラルとの過酷な組み手や体力訓練、そして神経をすり減らす精密なマナ制御訓練という、変わらないリズムで刻まれていた。
俺の身体は、この一年以上の鍛錬で、見違えるように引き締まっていた。無駄な肉は削ぎ落とされ、代わりに強靭な筋肉が全身を覆っている。ファエラルの容赦ない指導は、肉体だけでなく、精神にも変化をもたらした。些細なことでは動じなくなり、痛みや疲労に対する耐性も格段に上がった。何よりも大きな変化は、俺の内部を流れるマナにあった。
あれほど荒れ狂い、制御不能に陥りかけた力の奔流は、今では、注意深く意識を向ければ、その流れを読み、ある程度は安定させることができるようになっていた。もちろん、油断すればすぐに暴走の兆候を見せる危険な状態であることに変わりはない。だが、以前のように常に怯え、抑え込むのに必死だった状態からは、確実に進歩していた。
ファエラルの訓練も、俺の進歩に合わせて、より高度で複雑なものへと移行していった。
「止まっているだけでは意味がない。動け! 動きながら、そのマナの安定を維持しろ!」
険しい岩場を駆け上がりながら、あるいはファエラルが繰り出す鋭い攻撃を躱しながら、体内のマナを一定の状態に保つ。それは、静止状態での瞑想とは比較にならないほどの集中力と制御能力を要求された。何度も失敗し、マナの逆流による激痛に身を捩らせ、その度にファエラルからの罵倒と拳骨が飛んできた。
「泉の水を操ってみろ。ただし、水面には一切波紋を立てるな。泉の底の小石の一つ一つが見えるほどの透明度を保ったままだ」
谷の中心にある『力の泉』の水を、マナで持ち上げ、形を変え、そして静かに元に戻す。水の持つ流動性と、マナの持つエネルギー。相反する性質を調和させ、完璧な制御下に置く訓練。これもまた、気の遠くなるような反復練習を要した。
「理論を疎かにするな! この魔法陣の構成原理を説明しながら、同時に指先で光の球を三つ、寸分違わず同じ軌道で回転させ続けろ!」
思考と実践の同時進行。脳と身体、そしてマナを完全に連動させるための訓練。俺は、前世の記憶――田中健二としての分析力や論理的思考能力を、ここで初めて意識的に活用した。魔法という未知の現象を、科学的な思考法で分解し、再構築しようと試みる。もちろん、全てが通用するわけではない。だが、そのアプローチは、時としてファエラルさえも感心させるような、新たな発見や効率化に繋がることがあった。
師であるエルフとの関係も、微妙に変化していた。彼女の口の悪さと厳しさは相変わらずだ。だが、俺が難度の高い課題をクリアした時、彼女は何も言わずとも、その口元に一瞬だけ満足そうな色を浮かべることがあった。また、稀にではあるが、訓練の合間に、彼女自身の過去の経験や、古代魔法に関する断片的な知識を語ってくれることもあった。それは、俺が扱っている力の危険性と、その先に広がる可能性の深淵を示唆するものだった。俺は、彼女の厳しさの裏にある、確かな指導者としての一面と、俺の潜在能力に対する(歪んだ形ではあるが)期待のようなものを感じ取るようになっていた。
時折、ファエラルは数日間、谷を離れることがあった。食料の調達か、あるいは外部の情報を集めているのか。彼女は多くを語らなかったが、戻ってきた時の僅かな雰囲気の変化や、「…ラドクリフの連中も、ようやく重い腰を上げたようだな」とか、「逃げた鼠どもも、ただでは転んでおらんようだがな…」といった断片的な言葉から、外の世界では、あの事件の後始末や、逃亡したアルフォンス一派の追跡が続いていることを窺い知ることができた。
その度に、俺は思い知らされる。この静かな谷での修練は、あくまでも準備期間なのだと。いずれ俺は、再びあの騒乱の中へと戻り、対峙しなければならない日が来る。アルフォンスと、彼を生み出した学院や社会の闇と。そして、俺自身の力と、その責任と。
ある満月の夜。俺は、いつものように泉のほとりで瞑想していた。ひんやりとした夜気が肌を刺す。だが、俺の体内のマナは、静かに、そして力強く循環し、身体を内側から温めていた。以前のような不安定な揺らぎは、注意深く制御すれば、ほとんど感じられない。水面に映る月のように、静謐で、澄み切った感覚。
(…まだ、足りない)
それでも、俺は満足していなかった。この制御は、まだ完璧ではない。そして、この力は、まだ俺が真に求める強さには程遠い。
だが、焦りはない。この静寂の中で、俺は着実に力を蓄え、己を研ぎ澄ませている。来るべき日のために。
ファエラルの厳しい指導も、孤独な鍛錬も、全てはそのための礎だ。
俺は、ゆっくりと目を開けた。星々が、手の届きそうなほど近くに瞬いている。
この静寂は、嵐の前の静けさなのかもしれない。
それでも、俺は進む。
自ら選んだ傷痕を抱え、力の奔流を制御し、そして、今度こそ、大切なものを守り抜くために。
来るべき日に備え、俺の静かな鍛錬は、まだ続いていく。