第十二章:空が赤く染まった日
それは、何の変哲もない、ありふれた午後のはずだった。
俺は魔法薬学の授業を終え、寮に戻る途中だった。カイと他愛ない話をしながら、中庭を横切っていた。空は高く、青く澄み渡っていた。最近感じていた不穏な気配も、この瞬間だけは鳴りを潜めているかのように思えた。
――その時だった。
学院の中心部の方角から、突如として、鼓膜を突き破るような轟音が響き渡った。同時に、大地が激しく揺れ、俺たちは立っていることもままならず、地面に手をついた。
「な、なんだ!?」
カイが叫ぶ。
悲鳴。怒号。建物の崩れる音。
そして、何よりも異様だったのは、空の変化だった。
先ほどまで抜けるように青かった空が、まるで巨大な筆で塗りたくられたかのように、急速に、禍々しいほどの深紅色に染まっていく。まるで、世界が終わる前触れのようだった。
学院中に、けたたましい警鐘が鳴り響く。
「緊急事態発生! 全生徒、教職員は直ちに指定区域へ避難せよ!」
繰り返されるアナウンスも、すでにパニックに陥った生徒たちの耳には届いていないようだった。誰もが、何が起こったのか理解できないまま、右往左往している。
俺は、あの古い倉庫で見た光景を思い出していた。あの不気味な魔法陣。あれが、この惨事を引き起こしたのか?
「リアン、ぼさっとするな! とにかく避難場所へ急ぐぞ!」
カイが俺の腕を掴んだ。俺たちは、押し寄せる人の波に逆らいながら、指定された大講堂へと向かおうとした。
だが、行く手はすぐに阻まれた。
ズンッ、という地響きと共に、俺たちの目の前の地面が割れ、そこから、黒曜石のような体表を持つ、異形の魔物が這い出してきたのだ。事前に教わったどの魔物とも違う。明らかに、この世界に自然に存在するものではない。
「…召喚獣か!?」
周囲にいた生徒の一人が絶叫した。魔物は、その長い腕を振り回し、逃げ惑う生徒たちを無慈悲に薙ぎ払った。血飛沫が上がり、悲鳴が絶叫に変わる。
「くそっ、やるしかない!」
カイが短剣を抜き、前に出た。俺も杖を構える。
だが、その時、俺たちの横を、烈火のような勢いで駆け抜けていく影があった。マーカスだ。
「どけ、雑魚ども! こいつは俺がやる!」
彼は、学年首席クラスの実力を見せつけ、強力な火球魔法を召喚獣に叩き込んだ。しかし、召喚獣は怯む様子もなく、逆にマーカスに向かって突進していく。
「危ない!」
俺は、咄嗟に防御障壁を展開し、マーカスへの直撃を防いだ。
「…リアン!?」
マーカスが驚いた顔でこちらを見る。
「今は争ってる場合じゃない! 協力するぞ!」
俺は叫んだ。マーカスは一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。「…借りるぞ、平民!」
俺たちが召喚獣と対峙している間にも、学院の状況は刻一刻と悪化していた。あちこちで爆発音が響き、建物が炎上している。空からは、赤い光を帯びた隕石のようなものが降り注ぎ、地面を抉る。教官たちが必死に応戦しているが、敵は召喚獣だけではないようだった。黒いローブを纏った者たちが、学院の各所で破壊活動を行っているのが見えた。中には、見覚えのある顔…あの倉庫にいた上級生や職員の姿もあった。
(やはり、奴らが…! これは、単なる事故じゃない。計画された襲撃、あるいは内乱か!?)
戦いは熾烈を極めた。俺たちは、カイの体術、マーカスの攻撃魔法、そして俺の精密な魔法制御と防御、戦術指示で、なんとか連携を取りながら戦い続けた。何度も危ない場面があったが、互いを庇い合い、ギリギリのところで切り抜けていく。憎まれ口を叩き合いながらも、マーカスとの間には、奇妙な共闘意識が芽生え始めていた。
だが、敵の数はあまりにも多い。そして、現れる召喚獣は、徐々に強力になっていく。
ついに、カイが一体の召喚獣の爪を受け、脇腹を深く切り裂かれた。
「ぐあっ…!」
「カイ!」
俺は駆け寄り、応急的な治癒魔法を施すが、傷は深い。彼の顔からは急速に血の気が引いていく。
「…リアン、俺のことはいい…お前だけでも…逃げろ…」
カイが、か細い声で言った。
「馬鹿を言うな! 絶対に助ける!」
だが、非情にも、新たな敵が迫る。先ほどよりもさらに巨大な、悪夢から抜け出してきたかのような召喚獣。そして、それを率いるように現れたのは、あの夜、俺を派閥に勧誘してきた、侯爵家の嫡男である上級生だった。彼の目は、狂信的な光を宿し、その手には禍々しい紋様が刻まれた杖が握られていた。
「見つけたぞ、リアン君。君のような才能ある者が、我々の理想に賛同しないのは残念だよ。だが、もはや関係ない。この学院も、古い秩序も、全て今日、生まれ変わるのだから!」
絶望的な状況。カイは重傷。マーカスも度重なる戦闘で消耗している。そして、目の前には、桁違いの力を持つであろう敵。
(…ここまで、なのか?)
灰色の人生を終え、二度目のチャンスを得て、必死に足掻いてきた。温もりを知り、友を得て、好敵手と競い合った。だが、それも、ここで終わりなのか…?
いや。
諦めないと、誓ったはずだ。
俺は、カイを庇うように前に立った。杖を強く握りしめる。体中のマナが、俺の決意に呼応するように、激しく脈打つのを感じた。あの森での恐怖も、命を奪った罪悪感も、今は全て力に変える。
「…どけ。カイには、指一本触れさせない」
俺の声は、自分でも驚くほど、冷たく、静かに響いた。
深紅に染まった空の下、俺は、自らの運命、そして仲間たちの命運を賭けた、最大の戦いに身を投じようとしていた。