第十章:旧世界の残響
学院の日常は、何も変わらずに続いていた。授業の鐘が鳴り、訓練場には声が響き、寮の食堂は生徒たちの喧騒に満ちている。だが、俺の中では、何かが決定的に変わってしまっていた。あの日、森でフォレスト・スピッターの命を奪って以来、世界は以前と同じ色彩を失ったように感じられた。
授業には集中しているつもりでも、ふとした瞬間に、あの魔物の断末魔の叫びが耳の奥で蘇る。夜、眠りにつけば、返り血のようにまとわりつく、どす黒い体液の感触に魘されて目を覚ますこともあった。食事の味もよく分からず、ただ機械的に口に運ぶだけの日々。カイは心配して声をかけてくれたが、俺はこの得体のしれない感情を、うまく言葉にすることができなかった。
特に辛かったのは、前世――田中健二として生きた三十五年間の記憶との、あまりにも鮮明な対比だった。
魔法史の授業で、過去の戦争における悲惨な記述を読むたびに、俺の脳裏には、平和な日本のオフィス風景が浮かんだ。蛍光灯の白い光、パソコンのモニターが放つ青い光、無意味な会議、数字の羅列。そこには、命のやり取りなど欠片も存在しない、退屈だが安全な世界が広がっていた。あの頃の俺は、ニュースで流れる遠い国の戦争や、映画やゲームの中の暴力描写を、どこか他人事として、何の感慨もなく消費していたのだ。
それがどうだ。今の俺は、この手で、現実に命を奪った。あの生々しい感触、断ち切られた命の重さ。それは、どんな映像や文字情報よりも、圧倒的なリアリティをもって俺に迫ってくる。ゲームのようにリセットはできない。映画のようにスクリーンが終われば忘れられるものでもない。
(これが、異世界…これが、魔法のある世界の現実なのか)
前世の記憶は、時に有利に働くこともあった。だが、こと「死」に関しては、その知識は俺を苦しめるだけだった。他の生徒たちは、魔物討伐を英雄的な行為と捉えたり、あるいは単なる「課題」として処理したりしているように見えた。だが、俺は違う。人の死、命の喪失がどういうことかを知っているからこそ、それを奪う行為の重さに、人一倍敏感になってしまっているのだ。
この記憶は、もはや「チート」などではない。むしろ、呪いに近いのかもしれない。
俺は、何か答えを求めるように、図書館に通い詰めた。歴史書を読み漁り、過去の戦記や英雄譚、あるいは哲学書のようなものまで手当たり次第に目を通した。この世界における「死」や「戦い」の意味を、倫理観を、理解しようとした。だが、書物の中に明確な答えは見つからない。ただ、どの時代、どの場所においても、命が軽く扱われ、暴力が肯定される現実が繰り返されてきたことだけが、無情に記されていた。
(俺は、何のために力を求めているんだ…?)
自問自答が続く。後悔しないため? 温かい家族を守るため? それは、綺麗事ではないのか。結局、俺もこの世界の法則に従い、力を得る過程で、誰かの命を奪っていくことになるのではないか? それは、前世で嫌悪していた、力を持つ者が持たざる者を蹂躙する構図と、何が違うというのだ。
ある夜、寮の自室で、磨かれた盾に映る自分の顔を見た。まだ幼さの残る、リアンという少年の顔。だが、その瞳の奥には、三十数年生きた男の疲労と、最近刻まれたばかりの暗い影が宿っているように見えた。
(俺は、リアンなのか? それとも、田中健二なのか?)
二つの人生の記憶が混ざり合い、自分の存在意義が揺らぐような感覚に襲われた。この二度目のチャンスを、俺は正しく使えているのだろうか。強さを求める道は、必然的に血塗られた道となるのだろうか。
その変化は、俺の行動にも僅かながら現れ始めていた。
剣術の模擬戦で、相手を追い詰めた時、無意識に最後の一撃を躊躇してしまい、教官から叱責を受けた。逆に、魔法の実技では、以前にも増して冷徹とも言えるほどの精密さで課題をこなし、周囲を驚かせたこともあった。それは、二度とあの森でのような不測の事態に陥りたくない、という恐怖心の裏返しだったのかもしれない。
そして、学院に潜む「影」に対する見方も変わった。以前は、単なる好奇心や警戒心だったものが、今はもっと切実なものとして感じられる。あの影の正体によっては、俺が経験したような悲劇が、より大きな規模で起こり得るのではないか? マーカスをはじめとする、有力貴族の子弟たちの動向にも、以前より注意深く目を向けるようになった。
旧世界の残響は、慰めにも、安易な答えにもならなかった。ただ、この新しい世界の厳しさと、俺が下さなければならない選択の重さを、浮き彫りにするだけだ。
俺は、田中健二の記憶を持つリアンとして、新たな覚悟を決めなければならない。過去の後悔と、現在の過酷な現実。その両方を抱えながら、自分自身の道を見つけ出すしかないのだ。
命の重さ。それは、一度知ってしまえば、決して忘れることのできない、重たい枷だ。
だが、同時に、俺がこれから進むべき道を照らす、唯一の道標なのかもしれない。
俺は、盾に映る自分の瞳を、強く見据えた。
揺らぎながらも、その奥に宿る決意の光は、まだ消えてはいなかった。