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序章:後悔は雨の味

意識は、底なしの暗闇からゆっくりと浮上した。

重い。身体が鉛のように重い。いや、それ以上に、思考そのものが鈍く、靄がかかったようだ。

最後に覚えているのは…そうだ、冷たい雨。アスファルトを叩く雨音。そして、迫りくるヘッドライトの眩い光――


(…死んだ、のか?)


それが、最初に形になった思考だった。

田中健二、享年三十五。特筆すべき功績もなく、かといって大きな失敗をしたわけでもない、ただ漫然と日々を消化していただけの、平凡なサラリーマン。趣味もなければ、恋人もいない。家族との関係も希薄。そんな、色のない、灰色の人生。

その結末が、雨の日の交通事故。呆気ないにも程がある。


(これが、死後の世界か…? 天国でも地獄でもなさそうだが…)


妙に温かい。柔らかい何かに包まれている感覚。そして、遠くで聞こえる…話し声? いや、音としては認識できるが、意味のある言葉として聞き取れない。まるで、知らない外国語を聞いているようだ。

視界もぼやけている。焦点が合わず、光と影が混ざり合った、曖昧な色彩が広がっているだけ。

なんだ、この不自由さは。まるで…


(…赤ん坊、だと?)


その考えに至った瞬間、全身に悪寒が走った。

冗談じゃない。冗談じゃないぞ! あんな、灰色の人生の、その果てがこれか? 全てをやり直せるとでも? 神様とやらは、どれだけ俺を馬鹿にすれば気が済むんだ!


「――あー、うー?」


声を出そうとした。抗議しようとした。だが、喉から漏れ出たのは、意味をなさない、ただの母音の羅列。意思とは裏腹に、身体は泣き声を上げるだけ。

クソッ! 思い通りにいかない! まるで、出来の悪い操り人形だ!


しかし、その一方で、冷めていく思考もあった。

死んだはずの俺が、こうして意識を保ち、温もりを感じている。これは、紛れもない現実なのだ。

そして、もし、これが本当に…「二度目のチャンス」なのだとしたら?


(後悔は、もう嫌だ)


脳裏をよぎるのは、締切に追われ、上司に頭を下げ、ただ時間を浪費した前世の日々。もっとやれることがあったはずだ。もっと違う生き方があったはずだ。だが、俺は何もせず、ただ流されるままに生きて、そして死んだ。

あの、冷たい雨の中で感じた無力感と後悔の味を、俺は決して忘れない。


(今度こそ…)


ぐっと、小さな拳を握りしめる。もちろん、赤ん坊の非力な力では、シーツに僅かな皺を寄せるのが精一杯だ。それでも、確かに誓った。


(今度こそ…絶対に、後悔しない生き方を)


ぼやけた視界の先に、巨大な顔が見える。おそらく、この身体の母親なのだろうか。優しい声音で、理解できない言葉を投げかけてくる。その表情は、慈愛に満ちているように見えた。

父親らしき、もう一つの顔も見える。どちらも、俺の知る日本人とは少し違う顔立ちをしている気がした。


そして、もう一つ。奇妙な感覚があった。

身体の内側を、何か微かなものが流れている感覚。血液の流れとは違う、もっと繊細で、温かいような、それでいて力強いような…不思議な流れ。前世では決して感じたことのない、この感覚は一体…?


(これが、この世界の…?)


分からないことだらけだ。言葉も、文化も、もしかしたら世界の法則さえも違うのかもしれない。

だが、一つだけ確かなことがある。


白紙の身体に、灰色の記憶。

この、とんでもなくアンバランスな状態で、俺の二度目の人生は始まった。

赤ん坊という、絶対的な無力の中から。


(見てろよ、世界)


今は泣くことと、乳を飲むことしかできないこの身体で。


(今度こそ、俺は――)


力強く、俺は産声を上げた。それは、新たな世界の始まりを告げる、決意の咆哮だった。

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