十四話 悪夢から現実へ
視界に映り込む景色は、淡く、靄がかかっているようだ。
身体に感覚はなく、苦しいとも、心地よいとも感じない。とても妙な感覚を味わう。
だが不思議と、この非現実的な状況に疑念を抱くことはなかった。
『ごめんねアルク。私がこんなだから、あなたに迷惑をかけてしまって』
『大丈夫! 僕、お母さんの病気も治すよ!』
『うん、ありがとう』
優しくアルクの頭を撫でる女性は、イリス・ブリストンという名であり、アルクの母である。
金髪で容姿端麗で泣きぼくろがあり、鼻や口元はアルクに似ている。
そんなイリスであるが、重い病に罹ったがために、顔色は悪く、体はやせ細っている。
とても重体であり、今にも命を落としてしまいそうな状態であった。
『ねぇお母さん、もし病気が治ったら――また、お父さんと三人で一緒に遊べるよね?』
『もちろん。アルクがいい子にして、それで私も元気になったら、三人でいろんなところに行けるようになるよ』
『やったぁ! じゃあ約束ね!』
アルクとイリスは指切りをして、固く誓うのであった。
――――――――――――――――――――――――
――ある日の朝の事。
イリスの容態はますます悪化していき、声を出すことすらままならない。
母親のやせ細った手を握りしめ、アルクは母の弱っていく姿を側で見ていた。
『ア、ルク』
『どうしたのお母さん』
『あなたの、お顔を……』
声が途切れてしまったが、イリスが何を求めているのか、アルクには理解出来た。
アルクは自身の顔を、イリスの視界に入る所へと持っていく。
するとイリスの目線が微かに、アルクへと向けられた。
表情に大きな変化は見られないものの、イリスは涙で目を潤ませている。
『お母さん……』
『約束、守れなくて、ごめんね』
弱々しい声でイリスは謝罪を口にした。
『ダメだよ! どこへも行かないでお母さん。僕がもっといい子にするよ! お父さんのお手伝いも、約束も破ったりなんてしない、だから……行かないで……』
涙が溢れて、もう歯止めが効かなくなってしまった。
今まで我慢して、甘えるのを我慢して、いい子にしていたはずなのに、どうして母は元気になってくれないんだ。
近くで見るイリスの顔は、アルクの知っているイリスではまるでない。
元気だったイリスは、アルクと、そしてアルクの父ともよく遊びに出かけていた。
大きな手が二つ、アルクの両手を包み込み、愛情を含んだ温もりが幼いアルクの記憶に刻まれている。
あの頃に戻って欲しい。イリスの病をどうか、治して欲しい。
――前みたいに、自分を抱きしめて欲しい。
『……アルク』
『……?』
『あい、してる――』
つい数秒前まで、僅かな輝きを目に宿していたイリスであったが、既に瞳孔が開き、目の輝きは消え去る。
手を握りしめる力も今はなくなり、脈打つこともやめた。
まだ幼いアルクには、自分の母親の身に何が起こったのかを把握する事は難しかった。
でもこれだは分かる。
――イリスはもう、ここにはいないということを。
――――――――――――――――――――――――
イリスがこの世を去ってから、三年の月日が流れた。
アルクはあと半月もすれば、七歳になる。
三年前のあの日、イリスが亡くなったあとすぐに駆けつけたのは父、アレス・ブリストンである。
咽び泣くアレスの姿は、幼いアルクの目に焼き付き離れることはなかった。
『父さん……どこ行くの?』
『アルク……』
アルクはおつかい終え、自宅の前まで来たところで、アレスの姿を目にした。
いつも見ている父の姿とは何かが違う。こちらに向けてくる目は、悲しげで、慈しむようである。
『アルク、よく聞け』
『……?』
アルクのもとまで歩いて来ると、屈み込み、アルクの頭を優しく撫でる。
『父さんはな、ちょっとだけこの街を離れないといけない』
『ちょっとだけって……どれくらいの間なの?』
『そうだな……アルクが大きくなって、立派になったその頃までだ』
『嫌だ……そんなの嫌だよ!』
ポロポロと涙を零し、縋るような目をアレスに向ける。
母のみならず、父までもどこかへ行ってしまうなど、耐えられるはずがない。
立派になる時まで、待てるはずがない。
しかし、アルクの想い、声、そのどれもがアレスの耳に届くことはなかった。
『アルク、愛してる』
イリスと同じ言葉を残し、アレスは歩を進める。
アルクは遠ざかっていく父の背中を、追いかけることも無く、ただ呆然とその姿を見守るだけだった。
視界が、涙で滲んでいく。前が見えないほどに。
――。
「うぅ」
「アルク?」
先程の淡い景色とは異なり、今度はくっきりと目の前が見えている。
質素な天井。何度か、見たことがある景色であった。
――あぁ、夢だったのか。
夢だと気づいた時、既に視界には輝空の姿があった。
嬉しそうな面持ちが目の前にあることに、少し笑いそうになるもぐっと堪えた。
「アルク、お前もう大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫」
「良かったぁ」
アルクは、少し重たい体を持ち上げて、部屋を見回す。
自宅では無いものの、見慣れた景色であった。
何度か寝泊まりしたことのある場所だ。どの建物なのかも覚えている。
輝空のすぐ後ろに座っている老人にも見覚えがある。
両親のいないアルクには、たった一人の家族と言っても過言ではない人。
「領主のじいちゃん」
「無事で良かった、アルク」
目を丸くしてこちらを交互に見る輝空が、視界の端に映り込んだ。




