休日の名探偵
「犯人はこの船の中にいる」
大型のナイフに貫かれた遺体の前に立ち、熱心に観察していた名探偵は
「私には犯人の姿がすでに見えている」と言い放った。そして、はっきりと
「犯人は男」と断言した。
遺体発見からまだ数分、急な展開に船内がざわめく。
「見なさい。背中から突き立てられたナイフは体を貫通して胸から飛び出しているだろう。こんなことが出来るのは屈強な男だけだ」
乗客からほう、と感嘆の声があがる。
「屈強な女ということはないのですか」向かいに立った男が聞く。
名探偵は強い口調で「そんなわけないだろう」と答えた。
名探偵が言うのなら、そうなのだろう。
「そして・・・
犯人は被害者の顔見知りである」
なぜそんなことがわかるのだ?皆が息をひそめて次の言葉を待つ。
「背後から狙ったのがその理由だ。顔を見られると困る理由。それは顔見知りだからだ」
乗船客は再び感嘆したが、別の男が「しかし」と問うた
「殺してしまえば、見られようが、見られまいが関係ないのでは」
名探偵はひるむことなく、そのとおりだと大仰にうなずき
「そう考えるのが普通だ。しかし犯人はそう考えなかったのです」と言い切った。
「そして、犯人の職業は・・・」
誰もが息を止めて名探偵を見つめる。
「職業は、医者だ」
なんと、それが本当ならもう犯人は特定されたも同然ではないか。
「どうしてそんなことがわかるんだ」誰かが言った。
「被害者は心臓をひと突きにされている。しかも背後から。
背後から正確に心臓の位置を見極めることが出来るのは、医者しかいない」
もう十分だ。これだけわかっていれば間違いなく犯人を確定できる。
刑事が勢い込んで飛び出そうとするのを名探偵は引き止める。
「あわてる必要はありません。この船は10日前からずっと太平洋の上なのですから。どこにも逃げ道はない」
おお、だから名探偵は最初に犯人はこの船にいると言ったのか。
「私の推理はこれで終わりではありませんよ」名探偵は遺体を指差し、
「この遺体をよく見なさい。体の少し左からナイフが刺さっているのがわかるだろう。これは左手で刺したことを示している。つまり犯人は左利きなのだ」
名探偵は自らの能力を誇示するようにたたみかける。
「そして、犯行の動機は・・・金です。犯人は金に困っていたのです。それで資産家の被害者を狙ったのだ」
「なんと、この被害者は資産家なのですか」
「わからないかい。彼の胸ポケットからチェーンが見えているだろう。あれは金時計のチェーンだ。金時計を持っている人はたいがい資産家なのだよ」
間もなく、たまたま船に居合わせた刑事によって犯人は確保された。
この船に乗っている男、顔見知り、医者、全て名探偵の指摘通りだった。おそらく左利きでもあるのだろう。
犯人の男は信じられないという面持ちで「まさかこんなに早く捕まってしまうとは。私は運が悪かった」と嘆いた。
『 「手記」
「太平洋クルーズがしたいんだよ。だから週末までに金を振り込んでおいてくれ」その言葉で私の我慢は
限界を越えました。
私は彼の主治医をやっています。といっても犬の主治医です。彼は自称ブリーダーで、私は常時10匹ほどの犬の健康チェックのために月2回、彼の家を訪れています。私は獣医なのです。
しかし彼は私の弱みを握り、色んなものを要求しはじめました。金時計、宝石、はては車まで。私から何もかも奪うつもりです。
そして今度は、太平洋クルーズに行きたいなどと言い出しました。貧乏ブリーダーの分際で調子に乗りすぎだと思います。もう殺すしかないでしょう。でなければ私が破滅してしまいます。
武器はボウガンを用意しました。しかも矢ではなくナイフが発射できるように改造してあります。とても強力です。これで非力な私でも離れたところから彼を殺すことが出来ます。
正面から打ち殺してやりたい気持ちは強いもののボウガンだとやはり逃げられるリスクがあります。背後から静かに狙った方が良いでしょう。あいつが部屋の前を通り過ぎたところをドアの隙間から撃つ。少しななめからなので命中精度は落ちますが、威力があるので少しくらい外れても問題なく命を奪うことはできるはずです。
あとは、騒ぎに乗じて船を降りてしまえばよい。完璧な計画でしょう。
これで元の生活に戻れます。楽しみで仕方ありません。 』
「そうなのよ。
それでね、部屋から一歩も出ずにあっという間に犯人を見つけちゃったの。
それはそれは見事で完璧な推理だったわよ。
あの犯人、自分は運が悪かったって言ったらしいけど、
たまたま休暇中の名探偵とおなじ船に乗り合わせた時点で、もう運は尽きていたのね」
「でも、せっかくの休暇に厄介ごとに巻き込まれる探偵さんもお気の毒よね」
「休暇中にたまたま事件に巻き込まれてしまうのが名探偵なのよ」