バルディルラン①
息子の厨ニ病を叩き潰すために書いた
夕暮れ始めた空を見上げて舌打ちする。
傍を離れないように、と命じられたご子息を見失ってから、如何程経ったか。
慣れている者には無難な狩場の森だが、央都の子供には死傷の危険がある。
それにしても可怪しい。
こうも簡単に、あっさりと、見失うはずは無いのだ。
共に探している奴も、何処に居るのか。
悪質な作為か、まさかそんな。
応援を呼ぼうと、馬場まで走る。
急に開ける場所に出た。丘まで見渡せる。
丘の上に馬上の者が居た。
随分離れているのに、その者が片眉を上げ、薄く笑うのが見えた。
不思議に思う間もなく、激しい衝撃と窒息感に魘われる。
傾く視界に、美しくも不穏な森の夕暮れが映った。
何でこんな事になったのか。
そりゃそうだ。
疲れたからと、ふらふらと足下ばかり見て歩いていた。だから気が付いたら周りに誰も居なかった。
ーー何で居ないんだ?
泣きたい。九歳だから泣いてもいいだろう? こんな夜中の真っ黒い森の中で迷子なのだから。
やはり我慢すべきか?
「イザク、イザクー!」
一番信頼している名を呼ぶ。返事はない。何故か今日は昼から別行動だった。すぐ傍に居る訳がない。
声を出したら、涙がぼろぼろ溢れた。呼べはいつもやって来る、頼れる男の返事はない。
来た道を戻ろう、でもどっちだ?
もう無理だ。もう駄目だ。
「イザクー!」
大声で泣き叫びながら歩く。夜中に大声出すと獣やならず者が寄って来る、と注意されていたが、そんな事よりも早く会いたい、顔を見て安心したい。そうだ、今はそんな事言っていられないんだ!
付き人は何処へ行った? 何で居ないんだ? 何で自分から目を逸したんだ?
ーー まさか、置いて行かれた?
恐ろしい考えに、息も涙も足も止まる。
そんな筈はない、そんな筈はない、そんな筈はない。
「ね、ねぇ、イザク、イザクー!」
早く森から出たい! 早く夜が明けてほしい! そうすれば、そうすればイザクが、誰かが自分を見付けてくれる。
でも、見付けられなかったら?
探してもらえる程、こんな愚かな自分に価値があるのか? 父上を失望させてしまわないのか?
前を向けない、足が動かない、息が出来ない。
知っている、分かっている。森は大きく、夜はまだ明けない。
動かないのが一番良い事なのか? こんな目印のない、暗くて見えない場所で見付けてくれるのか?
不安を吐き出すように泣き叫んだ。一時だって独りで居たくない!
泣き声を咎めるかのような恐ろしい叫び声が、青黒い闇夜に響き渡った。
びくりと身を縮こませた拍子に、足を滑らせる。悲鳴を上げながら、坂を転げ落ちた。全身あちこちぶつけて、自分の不幸にまた涙が出る。
だが冷たい泥に塗れて、少し冷静になれた。周りを見渡すと、木々の間から何かが反射している。
水、だ。池だ! だから地面が緩くなっているのか。
また恐ろしい叫び声が響いた。池の方から聞こえる。木々の間から何かが飛んでいるのが見える。黒くて大きい。
怖い。でももう、孤独と不安で真っ黒な恐怖から抜け出したかった。黒くて大きいものが何なのか、僅かな好奇心も。
注意深く屈みながら、一歩踏み出す。黒くて大きいものに見付からないように。
しかし無駄だった。
池に繋がる木に触れた瞬間、叫び声と共に黒くて大きいものが目の前に飛び込んで来た。真っ黒い喉に飲み込まれる。
「わあああああ!」
咄嗟に屈んで短剣を握った。そうだ、腰に短剣を差していたんだ!
頭上でやたらめったらと振り回す。
「だから言ったでしょう」とため息をつくイザクが浮かぶ。「こういう時の為に、短剣術も必要なんです」と。
我に返る。
ついうっかり、黒くて大きいものから目を離してしまった。どうしていつも集中出来ないのだろう、いつも怒られてばかりだ。自己嫌悪でまた涙が出る。袖で拭きながら、以前教わった低い体勢を取り、後退る。
だが、泥濘んだ地面に足を取られて、ずるずるりと池へ滑り落ちてしまった。冷たい水と足場の悪さに慌てて、また沈む。
何度も足を滑らせ、もがきむせ込み震えながら、ようやく立ち上がる。死にかけるとは、こんな感じか。
水面は胸辺りで、大分岸から離れてしまった。池から上がれるだろうか?
多分無理だ、足場が悪過ぎる。陸へ戻れない。
じゃあ、このまま溺死するのか? 自分が死ぬ前に、イザクは見付けてくれるのか?
自分の身体を抱き締める。手に短剣はもう無い。もう見付からないだろう。これからどうやって自分の身を守ればいい?
そういえばあの化物は何処へ行った? あの黒くて大きい、ギャーって鳴くと真っ黒い喉から長い舌が見えて、黒くて、羽があって、ギャーって鳴いて、目が黒くて、嘴も黒くて――。
「おーい!」
声が聞こえた。
人だ! 誰だ? 助けか? 人だ! 助かる! 何処だ? 何処、何処? 助けて!
岸沿いにぽつんと小さい灯りが見えた。揺れている。
駆け寄ろうとして、また足を滑らせて沈んだ。ああもう嫌になる。落ち着け、冷静になれ。イザクの呆れ顔が脳裏に浮かぶ。
顔を水面から掻き上げると、頭上をカラスが横切った。
カラス? カラスは夜飛べるのか? 化物はカラス? いや、カラスの姿をした化物か。
化物は頭上を旋回している。目を離せない。攻撃されたらどうしよう? 喰われてしまう!
「おい、大丈夫かい?」
真横で女性の声が聞こえた。
「うわああああっっ」
驚きで、奇声を上げながら跳び上がる。こわごわと振り向くと、池に裸の女性が立っていた。
裸? 女性? 誰? 本当に裸の女性なの? 何で裸なの? 母様の裸だって見た事ないのに!
「おーい坊や、一体どうしたんだい?」
闇から抜け出した褐色の肌は水面の反射で揺らめいてる。長い髪は赤黒くうねって肌に刻まれた刻印と繋がり、瞳は闇夜に光っている。
ーー精霊だ。カラスの女王の化身だ。
カラスの女王は腰に手を当て、あははと笑う。
「坊や、迷子かい?」
独りだと分かったら、きっと喰われる。だって何だか血の匂いがする。
「坊や、あちこち怪我しているよ。痛くないかい?」
カラスの女王に指摘されて、自分の身体を見下ろした。あちこちに擦り傷がある。左腕は袖も破けて傷も大きい。
痛みが湧き出してきた。痛い。今まで恐怖で痛みに気が付かなかった。
やっと大人に会えた。ヒトに化けたカラスだけど、怖くて仕方ないけれど、独りじゃない。
「うううぅ」
しゃくり泣く。泣きながらカラスの女王を見ると、「あーあぁ」と、呆れた笑顔で見返された。
助けてくれるのだろうか? こんなに泣いていたら愛想尽かされて居なくなってしまうかも。でもまた独りになりたくない!
「坊や、君、泳げるかい?」
がたがた震えながら頷く。
「そう。いいかい、あそこに光があるのが見えるかい? あれは角灯の光だ。私はあそこからやって来た。今からあそこまで戻るよ。あそこまで泳げそうかい?」
「……」
「ちゃんと声出してお云い」
「……、だ……すぅ」
「何だって? 聞こえないよ、はっきりとお云い!」
「わか、ん、ない」
「よし、そうかい、ゆっくり泳いで渡るよ。途中、足がつかない深い場所があるからね」
ーーあっちに行ったらイザクから離れるのでは?
「……い、」
「え、何だって?」
「あるく」
「歩いて、は難しいかなあ。水中では足がつかない深い場所があるからね。ん、ああ陸かい? 陸は駄目だね。先ずそこの岸からは上がれない、足場が悪いからね。上がれる場所まで移動となると遠廻りになる」
また、あははと笑う。変なカラスの女王だ、カラスの女王は変なのか?
「裸で森の中は、ちょっと怪我しそうだねえ。法石も持って来ていないしね」
法石を使えるのは金と知識のある者のみだ。カラスの女王もそれだけの地位と権力があるのか。
「さあ、行くよ」
差し伸ばされたカラスの女王の手。どうしよう。裸のカラスの女王は笑顔だ。
カラスの女王。精霊の化身。自分から手は伸ばせなかった。
カラスの女王は伸ばした手をすっと上げた。動きに合わせて顔も上がる。大きい手が明るい夜天に影をつくる。
カラスの女王の手が降り落ちる。
「ひっ!」
恐怖に身構える。
物凄い水音とともに飛沫が顔に当たった。カラスの女王の手は激しく水面を打ったのだ。
「うわあああ!」
驚いて顔を背けたら、再び足を滑らせた。水中に沈む間際に夜天を仰ぐ。もうカラスは居ない。
「あはは!」
気が付いたら、仰向けになって水面に浮いていた。夜天が動く。どうやら、カラスの女王が襟首を掴んで、引っ張っているようだ。
何処に向かっている?
拘束から逃れようと身体をばたつかせる。立ち上がろうと足を出す。がぼりと泡を踏み、水を飲んだ。目の前が真っ暗になる。痺れのような墜落感が全身を駆け巡った。
「おおっと」
カラスの女王は、腕を掴んで引き揚げてくれた。
「あはは! 君ねえ、溺れて死んでしまうよ」
後ろから抱き抱えられて、大きくむせ込む。
怖かった、怖かった!
「あはは! 怖かったかい? 泣いたのかい? 大人しく、良い子にしておいで。私を軽く掴んで、ゆっくり浮いて、仰向きで。そう、そうだね、いい子だ。じゃあ行くよ」
滑らかに水面を切り進む。
しゃくり泣きながら掴むカラスの女王の肌は、ひんやりと優しかった。女性の肌なんて、顔と手首しか触った事が無い。
「おや、身体が冷えてしまったかい? しっかり掴まれそうかい?」
カラスの女王に引き寄せられるように、顔を覗かれた。はっとして目を合わせる。闇夜に光る瞳に呑み込まれそうで震える。慌てて首を横に振った。
「あはは! 仕方ないよ。あんなに泣いたし、溺れたしね。それにしても、一体どうしたんだい? 君のような子がこんな所で迷子だなんて。どうやら服装から思うに、ドマニの狩りで逸れたね。そう、ああやっぱり。さっきカラスが居ただろう、いやあ良かったねえ、あの子に見付けてもらえて。ん、ああ、そんなにむせ込んで、やっぱり辛そうだねえ。もうすぐ着くよ」
角灯の灯りが水面に映っている。石畳の階段が見えてきた。水辺にも石が敷き並べて、人工の岸が作られていた。
「洗濯していたんだよ、血で汚れちゃってねえ」
洗濯場なのか。洗濯? こんな夜中に? 血? 返り血か? 狩り、それとも人殺し?
「あ」
カラスの女王が視線を逸した。と同時に、自分の身体が弧を描いて水面を切った。視界に飛沫が上がる。
カラスの女王に投げ飛ばされた。そう気付いたときには、石畳みに打ち付けられ、廻りながら滑っていた。傷のある左腕が擦れる。痛みに思わず声が出た。
「殿下!」
聞き慣れた声に顔を上げると、イザクが居た。
イザク!
え、イザク怖い。
物凄い怒気と殺気に悪寒が奔る。怖い。嘔気が襲って来た。
イザクは抜剣している。切先は、水中に居るカラスの女王に向けられていた。
「殿下、ご無事か?」
痛みと嘔気で答えられない。動きたくない。
カラスの女王は腰に手を当てて、首を傾げていた。
「ねえ君、一体今迄何処に居たんだい?」
「何者だ、答えよ」
イザクが厳しい声でカラスの女王に尋ねる。
「はあ、随分と若いねえ。君独りかい、他の仲間はどうしたんだい?」
「何者だ、答えよ」
剣を構え直しながら、繰り返す。暫し睨み合う。
「ほう、ふふ」
カラスの女王が岸に上がる。角灯の光を反射し揺らめく水面から裸体が現れると、さすがにイザクも戸惑いを隠しきれず、視線も切先も揺れた。
そして、カラスの女王の全身が上がり切った時、カラスの女王の内股から血が垂れた。
イザクの驚愕を、カラスの女王は見逃さなかった。
カラスの女王は、回し蹴りをイザクの顎に喰らわせる。思わず膝を付いたイザクの背後から、うなじと肩を踏み付ける。
あっという間だった。
「さあて、どうしようかねえ。ああ、呻かないで。内臓を踏み潰すよ」
カラスの女王の内股から血が垂れ落ちる。ぽたりぽたりと、イザクの顔や服に血が垂れ落ちて、生臭い匂いが充満する。
血が出ている!怪我? 泳いでいる時に? 僕のせい? また僕のせいで血が出ている!
吐いた。続けてもう一度吐く。
「おっと!」
駆け寄ったカラスの女王が、身体を支える。
「そう、そのまま下を向いて。身体は少し起こして。そう、そうだ。まだ吐きそうかい? もう少し水の方へ動けるかい?」
「う、ぐ」
また吐いた。
「ああ、そうだね、我慢しないで、大丈夫だよ。さあ、抱っこしよう。冷えたせいかね、胃が裏返ったかのように震えて辛いよね。また吐いてもいいんだよ。まずは口を濯ごうかね」
カラスの女王に抱き上げられた肩越しに、イザクが見えた。大量に鼻血が出ている。また吐きそうだ。
「ああ、離れる際にねえ、鼻を踏んだんだ」
のんびりした口調だが、恐ろしい。
「あれは、本当に君の保護者で間違いないかい? 保護者のふりをした敵ではないのかい?」
血の匂いが充満する。もう出ない物を無理やり吐き出したくなる。
「な、ない」
イザクは既に納剣して、水辺で黙って鼻を押さえている。黙って、物凄く怒っている。
カラスの女王に抱かれて、水中に浸かるように座った。膝の上で口を濯がせ、含むように水を飲ませて、再び嘔吐しない事を見定めながら、汚物で汚れた顔や服を流す。
「若造!」
カラスの女王が呼ぶと、イザクが駆け寄って来た。
「乾いた服を用意出来るかい? ん、仕方無いね。さ、坊や立ってごらん。歩けるね、よし帰ろう。身体が冷えるからね、階段の上で服を絞って待っていておくれ」
イザクは上着を脱いで、肩に掛けてくれた。両手で身体を抱き締めてくれた。
「殿下、こちらへ」
足元がふらつく。階段で座り込んだ。肩で息を継ぐ。何時間も水中に居たかのようだ。
「殿下、あの者は何者ですか?」
カラスの女王は、少し離れた角灯の所でこちらを見ながら声を掛けてきた。
「おーい、大丈夫かい?」
イザクが片手を上げた。カラスの女王が続ける。
「待ってておくれ、すぐ家に帰るよ」
家? 帰る? ドマニの館に? 声を出そうとしても、歯ががちがちと鳴る。
「殿下、先ずは服を脱いで下さい。今はこれを。貴奴の家が何処にあるのか分かりませんが、傷の手当も出来ましょう」
ああ、そうか。カラスの女王の家か。荒屋なのかな。
「イザク、鼻」
「鼻? ああ、そうです、貴奴にやられました。戦い慣れています」
「あのね、カラスの女王だよ。カラスが呼んだカラスの女王。カラスが居るんだ、夜に飛ぶカラス」
「カラスの女王がカラス? ……普通の鳥は、夜には飛べませんよ」
じゃあ特別なカラスだ。カラスの女王のカラス。
濡れて重くなった服をなんとか脱ぐ。寒い。
「火を起こしましょう」
「おーい、何言ってるんだい、すぐに家に帰るよ」
薄い服を羽織っただけのカラスの女王が頭を掻きながら戻って来た。手には盥を持っている。
「坊やおいで、これを着て。さ、家に帰るよ。抱っこするかい? ん、歩けるかい。よし、それじゃ行こう。寒いだろう、うちに着いたらすぐ湯に浸かろうね」
肩に手を回されて歩き出す。改めてカラスの女王を見上げる。陸に揚がったカラスの女王は、より大きかった。イザクよりも大きい。こんなに大きい女性は初めて見た。大きい事はカラスの女王の条件なのだろうか?
明かりの中で、カラスの女王の髪は赤く、肌は薄褐色だった。
「さて、若造。君は誰だね?」
肩越しにカラスの女王が気さくに尋ねる。鼻を踏んだ事をすっかり忘れてしまったようだ。
イザクは無言でカラスの女王を見つめる。対するカラスの女王は盥を抱え直すと、立ち止まり返事を待つ。
沈黙が落ちた。
カラスの女王の機嫌が悪くなったらどうしよう、またイザクが踏まれるかも。慌ててカラスの女王の服を引っ張る。
「イザクだよ、僕の護衛」
「ほう、それは素敵だね。でもお前に聞いたのではないのだよ、坊や。それに目上の人にはちゃんと礼節を持った受け答えをしなさい」
カラスの女王に叱られた。無知と無礼を指摘されて、羞恥と恐怖に震える。
イザクは大きく短く息を吐くと、カラスの女王の前に進み出て「我が主の保護を感謝します」と、頭を下げた。
「私はイザクといいます。我が主より御子息の護衛を任されております」
「おやおや、これは。ああほら、下を向いたからまた出できた」
カラスの女王があははと笑いながら、鼻血の止まらないイザクに布を投げて渡す。
「言っちまって良かったのかい? 脅すかもしれないよ」
「既に覚悟は出来ています。」
「豪気だねえ。」
あははとカラスの女王は笑った。
「では私も」カラスの女王は答えた。「ドマニの『赤い心臓』だ」
カラスの女王の名前。
「ドマニの『赤い心臓』!」
イザクが驚く程に、有名なカラスの女王なのか。
「こ、これは失礼しました!」
改まって敬礼をするイザクに、あははとカラスの女王は笑った。
「さて坊や、」カラスの女王がこちらを向いた。
「君の名は?」
ごくりと息を呑む。
「ぼ、僕……私は央国の王ガルドゥヴァランの息子、バルディルランである。こ、かようなもてなし、感謝する。よろしく頼む」
「よく名乗られた」
叱られず、ほっとする。
「まあ既に容姿は知ってたし、殿下と呼ばれた時点で確信した程度だが。ーーそれにしても幼い。お幾つかな?」
「…………き、九歳」
「ほほ、これは躾甲斐がありゃっしゃる」