デッサンⅣ:大いなるものへの予感
ぼくたちの父母は生前、寝る前にはかかさず数杯のお酒を飲む習慣があった。二人とも決まって飲む間、食べ物を口に入れることはなく、黙々と体にお酒を流し込んでいたのを強く覚えている。
二人とも飲んでいたのは、決まって柑橘系の果汁が入っていない、甲類焼酎のソーダ割りだった。それは炭酸と焼酎のみに頼った単純な味わいをしていて、口に含むと初め炭酸の爽やかさが抜けたあと、焼酎のやわらかな苦味が残る、雑味のない辛口であって、本来は食事に合わせるのが適当なものであるが、黙々とそれのみを口に入れるのも悪くない。晩御飯からしばらく経って、ほとんど消化を終えた時分に、食道を通り胃へと注がれてゆく冷たいソーダ割りは、思いのほか酔いの回りが早い。次第に酔っていくと、その単純な味わいのほかには必要なものはなくなり、黙々と飲んでは酔いを加速させることに終始すれば、それで十分なのだ。
ところで、この町には月に一度しか瓶缶の収集は来ない。ここに越してきてから、すでに二週間ほどが経過し、缶や瓶のごみがかなり溜まったころ、やっとその収集日がやってきて、ぼくは明日の早朝のために玄関に家中のごみをまとめていた。
ぼくがリビングや台所のごみの回収を終えて、最後に診療所へ入っていくと、そこには今まで集めてきた以上の缶が溜まっているのだった。ぼくたちはまだ診察室を寝床にしており、二階は日頃の生活で使うことはなくなっていた。というのも、ぼくたちがその家に住まなくなってから、大した手入れをすることなく、しばらくの時間が経過してしまったため、二階の部屋のいくつかや階段は損傷が酷く、特に床はひどく軋むようになって、自分たちの部屋とするには不安だったのだ。そのため、家の老朽化を食い止めるためにある程度の掃除をし、二階は物置として使うことにして、ぼくたちの主な生活スペースは一階と、そこに併設された診療所となった。
既に日付も変わっており、妹は寝支度を終えて、診療所に敷かれた布団の上にその身を投げ出していた。ぼくは、その周囲に置かれた、魚の鱗のような凹凸が彫られた缶ごみを集め回った。それらを集め終えて玄関にまとめたあと、同じ缶の中身の入ったものを冷蔵庫から二つ取り出し、ぼくは診療所に入っていった。
湿気を伴った空気は一つのかたまりとなって、ここら一帯の山に囲まれた田園を、上から押さえつける。ここらは風が吹かないわけではない。しかし、毎夜決まった方向から、その途上にある家畜小屋の空気を含んで吹いてくる風があったとしても、そのかたまりは粘着する液体のように、それごと田んぼを滑ってゆくのみであった。
そのために夜に窓を開けることは厭われて、また取り付けられたままだった旧世代のエアコンを修理することも叶わないため、診察室には扇風機が一台持ち込まれている。老朽化した診察室の夜は、規則的に送り込まれる風が、古びた部屋中を巡って、壁や天井に染み付いた、時の流れによる匂いを剥がしてゆく。その匂いは寝る直前の虚ろとした意識の前に降り注いでは、ぼくたちの気分を悪くした。
そのため、ここに越してきてからどの夜も、妹の状態は悪く、また悪いが故にその口が饒舌となるのだった。妹にはそのような節がある。
ぼくが診察室へ入っていくと、窓際の布団に寝そべっていた妹は、ぼくから缶をひったくっては、口をつけて飲み始めた。ぼくも自らの布団に座り込んだ。
お盆は並木さんの家にお世話になろうと思うんだ、よく考えてみたけど、やっぱりぼくたちだけだと不安だし、それが丸いような気がして。妹は、カーテンのない窓から、人工的な灯りのない空を見ていたが、こちらを振り返って「そう」と呟く。一呼吸置いたあとに、妹の、夜に特有の話し方で、「お盆って言っても、大したことはしないでしょ。」、また答えようとするぼくに、「一日で済む程度で。」と不機嫌に被せてくる。ぼくは、そうだね、ほとんど並木さん家がやってくれるだろうし、お墓(家からは少し離れた、並木林の中に墓地がある)に提灯を持っていくぐらいで済むよ、マキちゃんとも仲良くね、と答えた。やはり妹は不機嫌そうで、また「そう」と呟いた。
実のところ、妹もぼくも並木家は得意ではなかった。
並木家はこの土地で、代々農家を営んでいる。マキちゃんには二つ下の弟がいるが、その子も今年農業高校に入学したらしい。並木家のお母さんやおばあちゃんも代々、保育士をしている。マキちゃんも現在、保育士になるための進路を考えていると言っていた。並木家はぼくたちを幼い頃から、お隣さんとして面倒を見てくれた。そして、二人きりで移り住んだ今も、並木家は面倒を見ようとしてくれている。
彼らは善良な人間ではある。ただぼくたちが苦手としているのは、彼らが大きな時間の流れにいると感じさせる瞬間であり、またその振る舞いなのだ。それらはまた、彼らのお節介な配慮や、言葉のうちに確かに感じられるものであり、マキちゃんもその例外ではなく、歳を重ねるにつれて、その振る舞いに一層磨きをかけていった。
それが、今のぼくたち、特に妹にとっては、馴染み難いものとなってしまっていた。しかしぼくたちは、彼らの世話に預かるほかなく、また苦手ではあっても邪険にするほどのものではなかった。
ただでさえ調子の悪い夜を過ごす妹は、並木家の話題でさらに機嫌を悪くして、かといって会話はやめようとせず、話題を別のものに逸らそうと、その饒舌さを加速させる。
「蛇口がどうしても閉まらなくて、修理しなきゃいけないの、この前まで強く閉めれば、一分に数回落ちてくるぐらいだったのが、昨日今日は十数回落ちてくるようになって。あれでも水道メーターは回るんでしょ。」そうだね、でも大した料金にはならないと思うよ、気にしなくていいんじゃない。ぼくは妹の話すのを、心地よく感じながら聴いている。
「そうなんだけどね、テレビを消して昼に本を読んでいると、すごく気が散っちゃうの。」そう。妹はぼくの察しの悪さに嫌気が刺したような表情をして、飲み物を口に含んだあと、また話し出した。口を直接缶につけて飲むはずみで、その度に妹の耳にかけた長い髪が垂れてきて、鬱陶しそうに髪をひと束つまみ上げては、また耳へかけなおす。
「家で本を読んでいると、リビングに入ってくる暑さは悪くないんだけど、蛇口からシンクに落ちる水滴が、耳の裏に張り付いているみたいにうるさいの、気にしなくていいんだろうけど、読んでいる本とは別のことを考えさせられるの。」それでもまだぼくは、彼女が何を言いたいのかわからずに、ぼんやりとした意識で妹の方を見る。妹はぼくの後方にある扇風機を見つめながら、顔をしかめている。妹は傾けた缶に口をつけては、乱れた髪の毛を直す。妹はぼくが、彼女に対する理解を示せていないのを不機嫌に感じたようで、更なる説明を加えようとする。「つまりね、この水道がどこに繋がっているのかってこと。もちろん配水菅は地下に無数に分岐して埋められていて、それを辿っていけば、水を供給する施設に繋がっているんだけど、そうじゃなくて、もっと抽象的で大きなことなの。」そう言い終えたあと、妹は手に持っている缶を直角にして、その飲み口に引っかかって落ちてこない液体を口に運ぼうとし、しばらくあちこちに傾けたあと畳に置いた。ぼくは、妹がかすかな液体を口に運んだとき、その液体の空気に触れすぎて苦味が増したのを感じて、少し顔をしかめたのを見逃さなかった。缶を畳に置いた後、ぼくと目があったことで、妹は間が悪そうに、また少しばかり不機嫌になった。
「大きなことってのは、なんていうかお金のこと、どの土地にも無数に分岐した配水管が敷き詰められていて、わたしたちはそれにお金を払うことで生かされているの。でもそれよりも大事なのは、当たり前だけど、わたしたちはそういったものが他にも沢山なければ生きていけないってこと、電気とか食品とか。」なんて当たり前なんだろうとぼくは思った、妹はそんなぼくの心のうちを見透かして、さらに不機嫌になり、もっと饒舌に話し出す。「でも普通にしてれば、そんなことは考える必要なんてないの、物事がそうである必要や、それを構成しているものについては。たとえば、からだが無数の細胞のかたまりで出来ていることとか、今の自分が今までの偶然の積み重ねで形成されたようなことは、常に考える必要はないの。でも、耳のなかに響く雑音が、アルミのシンクを叩く水滴の音が、その何か大きなものへの糸口を常に示していて、わたしはそれを掴んじゃうの。」それを掴むって、ぼくはぼんやりと妹に言わんとしていることがわかってきて、答え合わせをするつもりで尋ねた。妹はぼくのその態度に気づいて、わかりきった結論を提示するように、「ばらばらになって大きなものに溶けるの」と言った。
その後、妹は畳に置いた缶をもう一度手に取り、自分の口元へ直角に傾けた。傾けると同時に、妹はついさっきそれを試みたことを思い出し、また、それを見つめていたぼくを見て、今度は柔らかく笑った。
一通り自分の言いたいことを話し終えた妹は、自分の布団の端の、めくれ上がったシーツを整えている。ぼくは、妹の長い髪が布団の上を払うのを静かに見ていた。しばらくの沈黙のあと、妹は立ち上がって診察室から出て、台所から同じ缶の飲料をもう一本と、グラスを二つ持ってきた。ぼくはその間、診察室とリビングをつなぐ廊下の床が、妹の歩みによって軋むのを、耳を澄ませて聞いていた。妹は常に雑音を嫌って、歩くときは足の裏の前半分のみを使い、つま先立ちで歩いていくのだが、それでもこの家の床は軋むのだった。
「やっぱり軋みがひどいよ、湿気の多い部分は特に。」、妹は持ってきた二つのグラスに、缶の内容量をちょうど半分に分けて注いで、片方をぼくの方へ押し付ける。そうだね、ちょっと気になるね、とぼくはまだ飲みきっていない缶を片手にそれを不本意そうに受け取るが、妹にそれを気にかける様子はない。
ぼくは毎夜、この夏が明けた後やこれからのことについて、話さなければならないと感じていたのに、ついぞそれを言い出すことはできなかった。妹は、ぼくのそのような試みに気づきながら、なんとかそれを言い出させないように振る舞っていた。妹は、自分が決して離れることのできないと感じている心地良さを守ろうとしていたし、ぼくもその心地よさを悪くなく感じていた。
夜もまだ明け切らないころ、布団のなかでぼくは、ほとんど空になった胃の内側に、ただへばりついて離れない液体が、胃全体を軋ませることによる苦しみで目が覚めた。ぼくは胃の気持ち悪さから寝返りをうって誤魔化そうとするが、それによって液体の上下をひっくり返した胃を滑らかに移動するのがはっきりと感じられ、胃の不快感は一層増した。寝返りによって窓へ体を直すと、窓外に見える空は仄かに青く、その空を見つめながら眠気を消していくうちに、今日は缶瓶ごみを出しにいかなければならないことに気づいた。それでもまだ起き上がるのがおっくうでただ空を見ていると、同じく妹も体の気怠さによって目を覚ましたらしく、窓側にむけていたその体を反対側へ向けると、ぼくと目があった。しばらく見つめあうと、いたたまれなくなってぼくは立ち上がった。
この広い田園地帯をぐるりと囲む山々の、うねりの特に低まった部分から、燈りを押し当てたような渋い赤みが漏れ出して、その赤さが伝播して山の輪郭を縁取ってゆくのが見てとれる。田んぼは遥か先、山の付け根まで広がり、明け切らない薄闇のなかにぽつぽつと民家の影が見える。田んぼの間に通された二車線の道路には車はおろか人影も見当たらないが、朝が近づいたことで風向きが変わって茂った夏草の青臭さだけが、ぬるいアスファルトの上を通り抜ける。
その道路の上を、ぼくは空き缶の大量に入ったごみ袋を持ち、同じくごみ袋を抱える妹を引き連れながら、ゆっくり歩いていた。この地域のごみ集積場は、ぼくたちの家からはかなり離れたところにあり、ぼくたちは薄暗い道をかなりの距離歩かねばならず、妹は気怠るそうに、それでいて暗がりを怖がってぴったりとぼくの後についていた。ぼくたちが歩く度に、ごみ袋に詰めた空き缶がぶつかり合い、がらがらとした音がここら一体に響いているのを、妹はやはりうるさく煩わしく思っているようだった。
「どこまで歩くの」と妹が呟きながら、いつもより足速に追いかけてくる。道なりに進んだところに蔵付きの家が見えるでしょ、電灯が立っているところ。この田舎道には道路灯が十数メートル間隔に立てられている、だが、その道路灯には白熱電球が用いられているため、明かりは十分でなく、このあたりの全く明かりのない夜中を照らしきることはできていないどころか、道路の一部を舞台装置のように照らし、夜の不気味さを一層強調するばかりである。そこで右に曲がるんだけどね、さらにそこから真っ直ぐ道なりに進めば、ちょっと開けた場所があるから。ごみ集積場は道路の傍に備えられた半円の膨らみに設けられているが、そこはこの土地のバス停も兼ねていた。バスは朝方と夕方に一回ずつやってきて、乗れば二十分ほどでこの地域唯一の駅へ連れて行ってくれる。
「遠いね」、妹はここで不機嫌になってもおかしくないが、今回はそれほどでもないようだった、持って行く空き缶の半分は自分が生み出したものだからだろうか、道を聞いた妹はぼくを追い越して前に出た。妹はごみ袋を抱き抱えて、音をならさないように歩いているが、それでも小さくカラカラと袋は鳴る。遠くの山肌は未だ紺色のままである。
先の曲がり角まで、道のりはまだかなりあり、それまでは一面の田畑が広がるのみで、視界を妨げるものはない。前を歩く妹は右に左に忙しく首を動かしては、何かを見ようとしている。ふと妹が風の流れる方向を見て歩みを止めた。妹の見つめる方角をぼんやりと眺めていると、妹が「あの大きくて青い屋根の建物だよ」といった。幾秒の後、ぼくはその建物を見つけた。薄明のなかでも青とわかる緩やかな片流れ屋根をしていて、その傍にはかなり大きな車の影といくつかの牧草が認められた。かなり遠くにあるはずだが、ここからでもはっきりとその畜産農場の形を見ることができた。今の時間帯は風向きが変わったせいか、夜に立ち込める獣臭さはない。大きいね、というぼくの言葉に、少し頷く素振りを見せて妹はまた歩き始めた。
あの曲がり角へ差し掛かるに連れてぼくたちは早足になった、ごみ袋に詰められた空き缶がカタカタと忙しく鳴った。角を曲がってからは比較的民家が多く集まっており、老人が住む家も多いため、民家の内の幾つかは既に明かりが灯っていた。ぼくたちはその灯りを見ては、他人と鉢合わせることを恐れて、より一層早歩きになった。ぼくの前を歩いていたはずの妹は、いつの間にかぼくの後にぴったりと付いてしまって、その急ぐ足がぼくの足に時折つっかかるのだった。遠くから吹く風の、倉庫のシャッターを揺らす音さえも誰かの到来に感じられて、大きな物音が立つ度に妹が恐怖するのがわかった。そうやってぼくは妹に押される形で小走りに集積場へと辿り着いた。集積場には七、八個、空き缶回収用のプラスチックが、空のまま置かれていた。ぼくたちは手持ちの缶をそこへ投げ入れた。袋をひっくり返して、箱へ空き缶を移す音は、ガラガラと大きく鳴り響いた。その音はぼくたちの焦りを助長させたが、その手を止めることはなかった。その作業を終えるとぼくたちは、ごみ袋をくしゃくしゃに丸めてポケットに入れ、足速に集積場を立ち去った。蔵付きの家がある角を曲がるまでは互いに何も話すことはなかった。ぼくたちは一心に帰り道を急いだ。
角を曲がると次第にぼくたちの歩みは遅くなった。それでもぼくたちは何も話すことなくゆっくりと歩いた。集積場へ向かう際に、立ち止まって畜産農場を見たあたりになってようやく、体の緊張も解けきった。ぼくは、後を歩く妹の横に並び、顔を見ると、彼女と目があった。暗がりのなかでかろうじて見える妹の顔にも、緊張を逃れた感情が見てとれた。しばらく見つめあっていると、突然妹は笑い出した。妹は目を細めて甲高く笑った、その声が響き渡るのを気にしないように。ぼくは妹の背後に、陽の紅みが山々の端から徐々に出てくるのを気にしながら、妹の釣り上がった口元を見つめていた。ぼくが呆気に取られていると、妹は「ばかみたいだね、変なこと気にして、びくびくして」と言った、つり目がちな彼女の目がだいぶ柔らかそうに動いていた。山の端の光が徐々に紅みを増していった、ぼくも可笑しい気分になっていた。空は少し明け始め、深い青を載せていた。ぼくたちは薄明のなか、互いに肩をぶつけながらゆっくりと家に向かって歩いて行った。
そうしてぼくたちが空っぽのごみ袋を片手に家についたのは、山々の背後にある赤みが空へと染み出しはじめ、田園地帯にかなりの見通しがきくようになったころであった。