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デッサン  作者: 不帰小屋
3/5

デッサンⅢ:雑音

 今日はわたくしの身体の調子も良く朝から良いお天気です。

 療養所にいると、身の周りのことはここの人たちがお世話をしてくださるので、ミカエルを洗う時だけ、わたくしが普通の、元気な女の子になれたみたいに感じられる、楽しい時間なのです。

(「鞠絵」『シスタープリンセス Re Pure キャラクターズ』)(1)



 

 それから、引越しから数日が経って、荷物は半分くらい片付け、リビングや水回りの生活で必要な場所はあらかた掃除し終わった。でも、ぼくたちはそこで力尽きてしまって、二階にある部屋のほとんどや、生活ではあまり使わないものが詰め込まれた段ボールは、そのままに放置していた。だから診療所には相変わらずに畳と布団が敷かれたままで、ぼくたちはそこで夜を過ごしていた。でも、いまだエアコンの調子は戻らずに、物置から引っ張り出してきた扇風機が一日を通して働き続けている。

相変わらず窓にカーテンは付いておらず、夜明けは日の出と共に赤い光が窓に差し込む。時間が経つにつれて空は青くなり、窓から差し込む光にも角度がついて、いずれぼくの布団を真ん中から二つに割る。太陽は畳の上に無造作に置かれたいくつもの空き缶を照らし、光が部屋の方々に散らかる。窓際に敷かれた妹の布団にはすでに人影はなく、リビングの方から食器の当たる音や、つま先で着地しては床から離す足の息遣いが聞こえる。

 ようやく起き上がって、ぼくはリビングへと降りていった。妹はすでに朝食の準備をしていて、机の上にはすでに出来上がった朝食とその横に今日の朝刊とそのほか投函された雑多な紙が束になって置かれていた。ぼくは席についてその一つ一つを拾い上げて目を通す。妹は怪訝な顔をして、ぼくがチラシや新聞紙を注意深く引き剥がし、目を通しては元に戻すのを見ながら、テレビの電源をつける。気に留めるべきことは何もないことを確認して、ぼくはやっと朝食に手をつけた。

 テーブルに向かっている妹は、体と口をテーブルに置かれた食事にむけていたが、目線は脇にそらして朝の情報番組を見ていた、そしておそらく耳もその音を拾っているのだった。ぼくもその音を聞きながら、目線は食事ではなく、テーブルに積み上がったチラシたちの、一つは上に積み重ねられて自らの断片を差し出すように、一つは乱雑に折られて一つの文を中断させているものへ向かっていた。「町内懇親会のお知らせ」に、「今月の粗大ゴミ回収のお知らせ」、読むのが嫌になって食事を再開させる。

 黙々と食べ続ける、食べ物を噛む時に自らの口腔に響く音を聞く。テレビの音をすり抜けるようにして、食器同士がぶつかり合う音や、緩くなってどれだけ閉めても水滴を垂らし続ける水道管から、シンクの上に一定の間隔を開けて落ちては弾ける雫の音が聞こえる。

 そういえばと、ぼくが咀嚼と咀嚼の間で声を発する。「なに」とテレビの声に混じってかすかに聞こえるほどの妹の声量がぼくの耳へと届く。昨日お隣さんに挨拶に行ってきたんだ、マキちゃんって覚えてるでしょ、前住んでたときによく遊んでたさ。口蓋にぼくの声が響く、耳にはテレビの声が聞こえる。妹はほんの少しだけ不機嫌な声で「うん」と返事をしてから、口の中に咀嚼していたものを飲み込む。それでさ、そのときマキちゃんと会ったんだけど、最初、ぜんぜんわかんなかったよ、やっぱりしばらく会ってなかったからさ、あそこの高校に通ってるって、秋からは一緒のクラスになるかもね。妹は食事の手を休めることなく、テレビの方へ時折目線を向けては、頭を少し揺らして相槌を打っている。おばさんも元気そうだったよ、あそこのさ、スーパーの近くにある保育所で今は働いてるんだってさ、ぼくたちが預けられてたところじゃなくてね。むかしあんなところに保育所なんてあったっけね。

お隣さんといっても、ぼくたちの住む診療所からはかなり距離をおいて、マキちゃんの、並木と表札の掲げられた大きな家は建っている。お隣さんはマキちゃんのお母さんも、そのお母さんも保育士をやっていて、ぼくたちが子供の頃はよく面倒を見てもらった。挨拶のあと、その場に偶然居合わせたマキちゃんと話していて、そこでは、マキちゃんのお母さんは、ぼくたちの預けられた保育所では折り合いが悪くなって辞めたと言われた。だから、かつて勤めていた保育所から反対の方向にある保育所へ勤めた直したらしい。マキちゃんのお父さんは農家をやっていて、こちらも代々続いている、ここら一帯の田地も何割かはが所有しているらしいが、ぼくにはどこからどこまでかはわからない。ただ、子供の頃、道を歩いていると、田地から大きな声で話しかけられたことを覚えている。

それでね、マキちゃんもさ、保育士になりたいんだって、そのつもりで大学とか見てるみたい。それでいま家から通える所を探してて、夏はちょっと忙しくなるかもって言ってたよ。「ふうん」、妹ははじめて声で相槌を打ったかと思うと、私に少し不機嫌な目を向けてきた。妹は目線をテレビに向けて、口の中に詰め込んだ食べ物を噛みながら、「よかったじゃん」、と曇った声を出した。まあね、いいんじゃないかな。それから今度一緒に遊遊ぼうって言ってたよ、少しだけ会って見ようよ。

 妹はすっかり黙ってしまって、ただ食卓を見つめている。ぼくは話すこともなく、そして話す気も失ってしまって、妹と同じように食卓を見つめる。食器には食べかけの目玉焼き、これは両面焼かれて塩がかけられていて半熟、ベーコンとソーセージ、よく焼かれていて手がつけられていない、トマトサラダ、表面にかけたドレッシングがいつの間にか滑り落ちて底に沈殿していて食べかけ。そこまで見て考えるのをやめて、片っ端から口に入れることにした。咀嚼する、嫌な音がする。飲み込む、これも嫌な音がする。食べるのをやめてみる、声が聞こえる、音楽が聞こえる、水滴、食器、「ああ、今日は調味料を一通り揃えに買い出しへ行かないと、、、」。

 朝日が部屋に入り込んで、光が差し込む一帯から徐々に気温が上がっていくのがわかる。嫌な夏の朝だ。差し込んだ光が影をつくる、僕はそれをじっとみる。妹が食事を終えて食器を片付ける音が聞こえる、水滴の音が勢いよく流れ出る水の音に変わる。朝の情報番組はその放送枠を終えて別の番組が始まる、けたたましくオープニングが流れ、出演陣の挨拶が明るく響く、窓の外には雲がたくさん流れているのか、部屋に差し込んだ光が大きな影によって遮られては明滅する。そうこうしている間に、妹が食器を片付け終えて部屋へと引き返していった。僕はつけたままで放置されたテレビを消そうと思った、そしてリモコンを取ったところでやめた。今度はふと、やはり水道はしっかり閉まらないのだろうかと思って、キッチンの方へ歩き、思いきり蛇口を閉めてみた。そうすると、僕の加えた力が伝わって、管が中に貯めこんでいた水を吐き出したが、しばらくするとまた水滴を落とすのだった。僕は観念した、そうだ、僕は今日、外に出なければいけないのだった。


 強烈な太陽の光が、真っ直ぐ伸びたアスファルトに跳ね返り、ぼくたちを熱く包み込んだかと思えば、畑の作物を揺らしながら道を横切る風が、熱気を一瞬だけ取り除いてくれる。

ぼくたちは田地によって縁取られた大きな一本道を歩いていた。車通りなどほとんどないにも関わらず、センターラインの設けられた、所々にヒビの入った道路は、上下にうねりながらどこまでも続いている。この道をしばらく歩けば交通量の多い道路に突き当たり、その道をさらにしばらく行けば最寄りの駅へ着く。その駅までの道にスーパーがあって、ぼくたちはそこへ向かっていた。

 「だからね、高校に行くには今と逆の方向に進まなきゃいけなくて、そうすると周りには山と畑しかないの、困っちゃうよねつまんなくて。うん、自転車だったら十五分くらいだけど歩いたらもっとかかるかな。みんなは自転車で来てるよ、みんなって言っても百人くらいだけどね。みんな自転車だからさ、学校が午前で終わる時は駅前に遊びに行くことはたまにあるよ。」と、ぼくが家を出たところでちょうど出会った、目的地を同じくするマキちゃんは、ここで暮らすことになったぼくに、道すがら地域のことを教えてくれた。

 「駅前には、小さい喫茶店と本屋と服屋とカラオケと、あと定食屋さんがいくつかあるくらいで、遊ぶところはあんまりないよ。でも遊ぶってなったらそこに集まるしかないでしょ。でも最近はみんな遊んでないみたいだけどね。クラスの半分くらいは受験があるし、別の半分くらいも色々あるみたいだし。襄くんは受験でしょ、受けるとこは決まってるの?」と、横にならんで歩いているのに、時折身をかがめるようにしてこちらを覗き込んでは、その長い髪を大きく揺らして、風にあおられるのを待つようにして聞いてくるその声を、風にかき消されながらもぼくは聞く。

一応そのつもりだけど、まだよくわかんないよ。去年は色々あったし、今は妹との二人暮らしで、やらなきゃいけないこともたくさんあるし、考えなきゃいけないこともあるから、ぼくが進路を決めるということは妹が進路を決めなければならないことになるしと、半ばはぐらかすような言い方をすると、マキちゃんは怪訝そうな顔をした。「そうは言っても、もう夏でしょ、ある程度はしっかり考えておかないとだめじゃない。でもここに帰って来たってことは、大学もこのあたりで済ませるつもりなんでしょ、それとも働くの、働くつもりなら色々協力できるけど。」と、もう一度覗き込んでくるマキちゃんの後ろには田地を取り囲む山々が遥か彼方に見える、連なってぼくたちを囲む山からは雲が次から次へと流れてくる。

 マキちゃんは姿勢を直しながら続けて話す、「巫空ちゃんの方はどうなの、秋学期からあそこの高校に通うんだよね、会いたいな久しぶりに、きっと変わってないでしょ。」と、ぼくは、そうなんだけど、それもまだわからないかな。あんまり外に出たがらないし、高校にも通ってくれるかどうか、と、適当に受け答えした。

それでもマキちゃんは、どこまでも続いていく道路の中、すごい速さで流れていく雲がぼくたちを影で覆ったとき、すこし考えた素振りをしてから、「じゃあ、これからのことも決まってないんだ。ちょっと心配だけど、まあまだ時間はあるからね」と、心配しているのか、よくわからない表情で言った。段々と頂点へ登ってゆく太陽の動きは、常に視界の端へ入りながら、身体は重くのしかかってくる熱を避ける術もなく、汗を流し続けた。

 ぼくたちはそれ以降、往復のあいだ、これからの話はしなかった。代わりに、もうすぐやってくるお盆に備えて、必要な物と段取りについて話し始めた。ぼくたちは二人だけだったし、ここでお盆を迎えることにも慣れていなかったから、それを案じてマキちゃんの家、並木家では、ぼくたちと一緒に盆を迎えようという話が挙がっていたらしい。ぼくはその厚意に有難くあずかることにして、買う予定だった品物に上乗せして色々と買い込んできた。

 ぼくたちは、日頃遠くまで歩くことが習慣化したことによる、田舎特有のせっかちな早歩きでスーパーまで向かっていたものの、帰り道に就いたころには、すっかり太陽は真上に来てしまい、さらにそれから三十分ほどして家に着いた。


 マキちゃんにお礼を言って別れて、家に入ると人気はなく、テレビの電源も落とされていた。リビングに誰もいないことを確認してから、診療所の部屋に入っていくと、妹が扉に背を向け、窓に向かい合うようにして布団に横たわっており、その背中からは不機嫌さが手に取るようにしっかりと読み取れた。声をかけても返事はなく、それでも肩や頭などは小刻みに動き続けている。カーテンの付いていない窓からはうざったいほどの陽気が部屋に入り込んでおり、それは扇風機一つで打ち消せるわけもなく、妹の首元にはかいては流れる汗の線が見てとれ、それがより一層不機嫌さに拍車をかけている。妹はぼくたちが当番制にしているご飯の支度を、ぼくがすっぽかしたことに対して腹を立てているに違いない。

 ぼくは妹のそばまで寄っていって謝り、すぐに昼ご飯の支度にかかった。妹は空腹と寝不足の時は特に機嫌を損ねやすく、また一度不機嫌になった場合は、いつも元に戻すのにかなりの時間を要した。

 ぼくは、一通り妹に謝ったあと、その場に留まって神経を逆撫でするのを避けて、生理的な不機嫌の元である空腹を解消すべくリビングに向かった。台所で携帯を開くと、妹からのメールが複数画面に現れ、その機嫌の推移を見事なまでに表現していた。水道管からは相変わらず水滴がシンクに落ちては変に耳に不快にさせる音が生じ、それを誤魔化すためにテレビの電源を点けては、また、けたたましい音声が鳴り響く。

 食器の音が、テレビと水滴の音の合間を縫っては鳴り響いている。妹は不機嫌ながらも、ぼくの話す言葉には耳を傾け、いくつかの相槌を与えた。ぼくは、マキちゃんと話した、いくつかのことについて、そのまま妹に伝えると、妹は機嫌を害された時に行ういくつかの仕草は見られたが、それでも相槌は欠かさずうってくれた。時計は二時を回っており、朝はあれだけ家に差し込んできた光も、太陽が移り部屋をまぶしく、姦しく彩ることはなく、でも、それでも夏の暑さだけは部屋に伝えている。

 以前の都市部に住んでいたころとは違って、窓から差し込む陽に直接肌を当てているとしても、なお透き透り白濁した肌をこちらに向けて、妹はぼくに問いかけてくる、「この後の予定はあるの」と。





 しかし、私たちは美しき魂のうちにではなく、痛めつけられた身体のうちにいるのだ。失業と都市によって、薬物と消費によって、くだらないテレビと愚鈍な説教によって痛めつけられた身体のうちに私たちは存在している。

(ジャン=リュック・ナンシー「原因と帰結」)(2)





(1)宮崎なぎさ監督『シスター・プリンセス RePure』「キャラクターズ」10話(2002年、テレビ東京)

(2)ジャン=リュック・ナンシー著、伊藤潤一郎訳『アイデンティティ––断片、率直さ』(2020年、水声社)


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