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デッサン  作者: 不帰小屋
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デッサンⅠ:常にある距離


 水母にどのような抵抗も押しつけていないように思える水の、圧縮できない充満のなかで、この生物は理想的な流動性をもって、放射状の左右対称の形を繰りひろげたり、縮めたりしている。これらの絶対的な踊り子たちにとって、床というものはなく、固体もどこにもない。舞台はない。あるのはただ、自分があらゆる点で支えられていて、しかも自分の望む方向にその支点が後退する、そんな環境なのだ。伸び縮み自由なその水晶体の身体には、固体はどこにもなく、骨もなく、関節もなく、不変の結合も、数えることのできる体節もない……。

 しかし、たちまち彼女はわれに返り、身震いして、その空間のなかに広がってゆく。そして気球となり、禁じられた光の領域へと昇っていくのだが、そこには星と死をもたらす空気が支配している。

(ポール・ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』)(1)



    

 ばちばちと、部屋に差し込む月あかりの中に響き渡るのはなんだろうか。星のひかりを打ち消してしまうほどに、あかるい今夜の月は容赦なく、窓から入ってくる。窓のカーテンは、朝がくれば起きれるように、そして気分をふさぎ込んでしまうことがないように、引っ越しの際に持ってこなかった。しばらくすると、雲がどんよりと空にかかって、月は隠れてしまい、部屋のなかも暗く閉ざされてしまった。

 この、かつて使われていた診療所のなかに、ぼくたちは畳と布団とを持ち込んで、簡易的な寝床にしていた。というのも、ぼくたちは、つまりぼくとぼくの妹は、今日この家、つまるところの今はなき両親がこの田舎まちで営んでいた診療所、それも居住スペース付きのものに引っ越してきた。ぼくたちはむかし、両親とともにこの地域に住んでいて、両親の死去とともに離れ、そうしてまた戻ってきた。

 そんなわけでぼくたちは今日の昼、ここに越してきた。何年も放置してきたこともあり、埃まみれだったへやべやを一日で住める状態にする力はなく、診察室だった場所を集中的に掃除することにして、診察室はぼくたちにとってそれなりに思い入れのある空間だった、しばらくそこに住み着くことにした。

 だから、ぼくは月明かりが差す窓際に敷いた布団を妹にゆずり、入口付近の布団に潜り込んでいる。どうしても寝れないものだから、頭をひっぱりあげるようにして窓の外をのぞきこんだりして、なんとなく時間や聞こえてくる雑音に身を委ねている。仰向けに寝ている妹の上がったり下がったりする胸のふくらみを超えた先には、はるか遠くに連なる山々が見えるだけである。この家の周囲には、いくつかの民家の他には、一面に田地が広がっているだけである。

 換気扇の稼働する音が騒々しく聞こえる。どうやら少し調子が悪いみたいで、浴室とキッチンの換気扇が診察室まで聞こえる。その間隙をぬって聞こえるばちばちとした音はなんんだろうか。ばちばちと一定の間隔で聞こえてくるその音は、どうやら診察室でなっているらしく、音の発生源を探ろうとしたけど、突き止めることはできなかった。しばらくすると、そんなことどうでもよくなって、思考はまた別のものを探し始める。

 明日から何をしようか。ちょうどいまは夏休みだったし、諸々の届出も親族の厚意によって、手を煩わすことなく片付いたから、ぼくたちは久しぶりに訪れたこの地域に体を慣らしていく十分な時間をとれた。明日から部屋を掃除して、それから足りない家具や食品を買い足して。

 ぼくはともかく、妹がこの出戻りしてきた地域や学校に無事馴染めるだろうかという不安が頭にうかびあがる。秋学期からこの地域に一つしかない高校へ、ぼくの一つ下の学年として入学する予定である妹は、あまり外に出たがらず、人とも話したがらないものだから、この娯楽が少ない田舎町でどうやって時間を潰しながら暮らしていくのだろうとおもう。でもどうせ冬に入るころにはあまり学校にも通うことはなくなっているだろうと、ぼくから数メートルほど離れた妹を見やるのだが。

 診療所に敷かれた畳のその上、窓際に置かれた布団とドアの前に置かれた布団のあいだの数メートルを補填する畳は、掃除をし拭いたばかりだから、いぐさのいい匂いはしないが、それなりの綺麗な緑色をしている。その上には物が散乱し、足跡のようにして妹の寝床まで道を示している。携帯電話が一番手前にあり、リップクリームや読みかけの本が散らばり、そこから飲みかけのペットボトルまではほんの少し、水が入ったペットボトルのそばには、妹が大事にしている黒いうさぎのぬいぐるみと、妹の体を覆うブランケットの端がある。妹はすこし濁った白色のブランケットにくるまれ、そこからほんの少し、同じくらい白い足と顔と髪とを覗かせるばかりである。

 このたかが数メートルの距離に於いて、ぼくは自らの視線を以てそれを詰めようとする。まだ月は隠れたままで、それでも窓の外と部屋との境界は明瞭に区別できる。妹は窓に体をそわせるようにして寝ていて、その頭のほうには、むかし父の机が置かれていた。よく患者を診察し、何かを書き込み、あるいは保管するのに使われた机はすでに捨てられ、いまはその形だけ日焼け跡がつかず、その机の存在したであろう形に白くかたどられた壁が残るのみである。足には薬品だかなんだかが詰め込まれるようにして保管されていた棚があり、こちらの棚自体は昔のまま残されているが、中身の薬品は全て処理されていて、何も入っていない。

 この距離はまぎれもなくぼくの距離であるのだ。ぼくから妹までの数メートル、そこに挟まれるいくつもの挿話、ぼくは視線で逡巡し、あるいは想起し、妹まで辿り着く、その無限に思われる距離の果てもない無限がなんとなく思われては、ぼくを憂鬱にする。

 この部屋中に交わされたぼくの視線のうちの一つが、数メートルの距離をあけて、足跡を辿るようにして、そしていくつもの記憶のなかを貫くようにして、妹の顔を視界に収めたとき、ぼくは妹の目が覚めていることにようやく気づいた。妹は、潤って粘ついたまぶたを閉じ、そして開くという行為をただ繰り返していた。まぶたはそのねばつきを以て、ばちばちという音を鳴らしていた。

 ちょうど妹がぼくの視線に気付いたのか、顔をこちらに向けずに、目だけでぼくを見て、「何か用があるの」、と聞いた。その発話の間にも、まぶたはまた閉じられ、また開かれた、そしてまたばちばちと音がかなでられた。夜のむし暑さに起こされたのだろうか、寝ていたときにかいた汗が乾き始め、その匂いが蒸気のように湧き上がるのがわかった。「暑かった」、妹は上半身だけゆっくり起こして、すぐ体の上にある窓を開けた、そして網戸ががたがたで使い物にならそうなのを見て、窓を閉めた。そして少し逡巡して、ブランケットから身体を大きく出すようにして、もう一度眠りにつこうとした。そしてもう一度ぼくの方を見やって、今度は顔ごとこちらに向けて、口がぼそぼそと動き、「なんで見てるの」とつぶやくように言った。

 ぼくは目を逸らした。空を覆っていた雲はいつの間にかどこかへいったらしく、月明かりは容赦無く部屋に差し込んできた。その差し込んできた光によって部屋のくらやみは切り開かれ、光は妹の寝ている布団からぼくの寝ているところ一直線に届いた。その妹の布団からぼくの布団まで伸びている光を見ていると、妹はひとりごとのようにぶつぶつと話し始めた。

「ここから近くの街まで出掛けていくのにどのくらいかかるかな」。そうだね、一日に数えるほどしかこない電車に乗って一時間弱は揺られてないといけなくて、その駅まで歩くにも一時間くらいかかって、自転車だともっと早く行けるけど、そのくらいかな。ああ、街に制服を買いにいかないとな。「いらない」。学校は一回ぐらい行ってみようよ、行く気になるかもしれないしさ。妹はだまりこんだ、またまぶたが閉じ、開き、ばちばちと音がなった。

 しばらくすると「さっき窓開けたときに、獣みたいな臭いがした、嫌な臭い。空調をはやく直してもらわないと暑くて夜は寝られないかもしれない。」と妹がまた言った。この時間帯は、風向きが悪く、遠くにある家畜小屋の臭いが運ばれてくるのかもしれない。日中は気にならなかったから、近くで畜産されているわけではなさそうだったけど、早めに空調はなおさなきゃいけないかもね。扇風機かなんか物置に置いてあった気もするけどそれで我慢するのはどうだろう。「嫌」。でも業者をよぶのもいろいろかかるんだからさ、明日からまた暑くなるんだって、間に合わないかもしれないしそれだったら扇風機で我慢するほうが。また妹はだまりこんだ。まぶたが閉じられる、そしてまた開けられた。ばちばちという音は、妹の目が覚めまぶたが乾くにつれて粘りが薄れて、だんだんと小さくなっていった。

 それでも、この部屋からいくつも部屋を隔てたはずの浴室から聞こえる換気扇のがなりたてるような換気扇はひっきりなしに聞こえてくる。どうもぼくたちの夏休み、一ヶ月ほどの短い時間は、この家をどうするかに当てられなければならないようだった。




 あなたはまた、世界について、あなたについて。あなたの体あるいはあなたの精神について、そして彼女があなたが侵されていると言うその病について、彼女がどのように見ており、どのように思っているのか、あなたもまたほかの誰もけっして何も知らないだろう。彼女自身も知りはしない。彼女はあなたにそれを言うことはできないだろうし、あなたは彼女から何も教えてもらえないだろう。

 けっしてあなたは、彼女があなたについて、この物語についてどう思っているかを、あなたもまたほかの誰も知ることはないだろう。どれほどの数の世紀があなたたちの現実の生の忘却を覆い尽くそうとも、誰もそれを知りはしないだろう。彼女も自分がそれを知っているということを知らない。

(マルグリット・デュラス「死の病」)(2)




(1)ポール・ヴァレリー著、塚本昌則訳『ドガ ダンス デッサン』(2021年、岩波書店)

(2)マルグリットデュラス著、小林康夫、吉田加南子訳『死の病・アガタ』(1984年、朝日出版)


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