顕微鏡相手に
次の昼休み、可野がやはり誘いに来た。朱音は今度こそ手を引かれなくても自分で立ち上がった。
化学実験室では先輩達も待っていてくれた。昨日と同じ席取りで食事が始まった。
可野は咲山に真っ先に尋ねた。
「咲山先輩って、中学で何してたですか?」
「何って?」
「ほら、山口先生が言ったです。クマムシを自力で見つけたのは先輩ぐらいだって。だから、何してたかなって思ったです」
「ああ、それね」
そんなやり取りに朱音も聞き耳を立てていた。可野と同様に探すのが難しそうなクマムシとやらを『自力で見つけた』人はどんな人なのかに興味を持ったのだ。
それによると、咲山は小学校の高学年からずっと毎日顕微鏡を覗いて暮らすような生活をしてきたらしい。主として水中のプランクトンなどを観察してきたのだそうだ。
クマムシはとある藻類を観察している時に見つけたのだとか。クマムシは陸上に多いが、水中生活の種もいるとのこと。
その間に赤木と梶本も盛り上がり始めていた。こちらの話題は化学実験のようだった。前回の続きらしく、話はさらに細かな所に入っているようだ。相変わらず梶本はしっかり食い下がっていたが、朱音にはもはやちんぷんかんぷんだった。
そんな中、咲山が急に梶本に声をかけた。
「ねえ、梶本君は何かしたいことないの?」
「いえ、僕は特に……」
急に尻込みする彼に、赤木がのしかかるように言いつのる。
「何を遠慮してるんだね? したいことがあるならどんどん言ってくれればいいのだ。大抵のことは何とかなるものだからな!」
だが彼はいよいよ身体を竦ませる。
「いえ、本当に……」
「だから遠慮することなど、ここでは」
すぱん!
頭を抱えてうずくまった赤木の代わりに、咲山が柔らかな笑みを見せる。
「別にしたいことがなければ駄目、って訳じゃないから気にしないで。ただ、本当にしたいことがあったら言ってね。それだけ」
すると星川がぼそりと言った。
「梶本、お前は何が好きなんだ?」
すると、彼は恥ずかしそうな、だがほんの少しだけ自信を感じる笑顔になった。
「僕の趣味はパソコンなんです」
「パソコン? じゃあどうしてパソコン部じゃなくて、ここなんだ?」
「僕は科学の方でパソコンを生かしたかったんです。それに僕のはみんなのと少し違うと思うんで」
星川は彼の顔をしばらく眺めて、それから視線を落とした。
「今度見せてくれよ、それ」
朱音はそんな彼の様子を、目を向けずに眺めていた。彼は相変わらず無愛想な顔のままで、つまらなさそうとも言えないが、何を考えているのかよくわからない顔だった。
朱音はしばらく彼を見つめた。何か彼に言わないといけないことがあったような気がしたのだ。確か、今日の実験では顕微鏡を使って、それが困るので考えたのは……
そうだ、デジカメ。
目の前の彼は何だか難しい顔だ。声をかけて良いものか。
そんなことを考える間に、彼はパンを食べ終わったようだ。そのままでは席を立ってしまうかも知れない。だから朱音はようやく声を出した。
「あの……」
「お?」
恐る恐る出した声だったが、彼はすぐに拾ってくれた。
「どうした?」
「あの……デジカメを……」
彼は無愛想な顔のまま、少しだけ笑ったようだ。
「ああ、そうだったな。今見ておいた方がいいな」
彼はそう言うと素早く腰を上げ、実験室の後ろへと歩き出した。それから振り向いた。
「何をしてる? こっちだ」
彼女も弁当を終わっていたから、慌てて立ち上がると彼の所に向かった。彼は後ろの棚を開けた。そこには『科学部』と書いたロッカーケースがある。そこの引き出しを引っ張り出すと、そこには何台かデジカメが並んでいた。
彼はその一つ二つを手にとって眺めた。
「これがいいだろう」
彼はそう言うとそれを彼女に手渡し、スイッチや操作を簡単に説明した。
「顕微鏡撮影はやってみた方が話は早い。あとは放課後だ」
彼はそう言うとデジカメを引き出しに片付けさせ、棚の戸を閉めた。
放課後、朱音は梶本の後を付いて廊下を生物実験室に向かっていた。
だがそこで忘れ物を思い出した。今日はデジカメを持っていかなければならなかったのだ。
振り向いて歩き出した朱音に、梶本が声をかけた。
「あれ、間宮さん?」
「デジカメを」
彼女はそれだけ言って歩き続けた。彼女の後ろ姿に向かって彼が小さく手を振っているのが視界後方に見えた。
彼女は化学実験室が見える廊下に来て、そこでようやく問題に気付いた。考えてみると、化学実験室のドアの開け方を知らなかったのだ。
とは言えここまで来たら仕方がない。とにかく開けてみて、開かなければ何か考えよう。そう決めてドアの所まで来た。
そっとドアに手を掛ける。力を入れると、意外なことに軽い手応えで開いた。
そっと中に入り、後ろ手で閉めた。
「ああ来たな」
唐突に聞こえた声に彼女は全身を竦ませた。視界を広げると、そこにいたのは星川だったのだ。
朱音は恐怖を感じた。ここにいるのは自分だけのつもりだった。なのになぜ彼がここにいるのか? 待ち伏せされたのか? 何をするつもり?
だが彼は朱音の表情を気にすることもなく、後ろのロッカーからデジカメを取り出した。
「これだろう? ほら」
彼がそれを差し出したので、彼女は慌てて彼の所へ向かい、それを受け取った。すると彼はそれで用事が済んだとばかりに実験室の出口に向かうとドアを開いた。
そこで振り返った。
「どうした? 行くぞ」
そう言ってドアの向こうに姿を消した。彼女は慌てて彼の後を追った。
結局、生物実験室に着くまで朱音は星川には追いつかなかった。彼が入ったあとに朱音が部屋に入ると、そこのは残りの全員が待っていた。
「あら、やっぱり化学の方だった?」
「ああ」
咲山の問いにも星川は一言答えただけ。咲山もそれ以上聞く気がないようだった。
「よし、じゃあまずやり方を見てくれ」
生物教師の山口がそんな風に言いながらシャーレを手に、昨日作った装置の元に向かった。もちろん全員がその後ろに続く。教師はゴム管の下端を押さえたピンチコックを緩めた。すると中に入っていた水と一緒に、小さなコケのかけらや土の粉のようなものが流れ出た。
朱音はそれを見て納得した。つまりこの装置は、ガーゼで包んだ試料から零れたものが底に沈むのを集めるようになっているのだ。ついでにそこから這い出した生きものも集まる訳だろう。
彼はシャーレからピペットで水を吸い取り、手早くプレパラートに仕上げた。それを顕微鏡のステージに仕掛け、調節をする。
彼が顕微鏡についているレバーを引っ張ると、傍にあったモニターが明るくなった。どうやら顕微鏡で見ているものが映し出されるようだ。
山口がステージのネジを動かすに連れ、モニター内の映像が移動してゆく。そして見慣れないものが次々に映し出される。緑色のコケの葉らしいもの、真っ黒の土のかけら、ガラスの破片のように見えるのは砂粒。
そして突然、真っ黒な大きい生き物が映し出された。がっしりした胴体から節くれ立った足が出て、それを振り回すように動かしている。
「ササラダニですね?」
「ああ、オニダニだな」
咲山の声に山口が答える。
「うああ、これもダニなんですかー?」
可野の素っ頓狂な声が響く。
「そうよ。ササラダニはがっしりした身体のが多いの」
咲山がそれに答えると、可野の声が更に高くなった。
「すっごーい! 格好良くて可愛いですー!」
朱音は心の中で首を捻った。可愛い? いや、確かにカブトムシなどに通じるごつさや厳めしさは感じるから『格好いい』は何とか分かるが……可愛いのか?
山口がさらにプレパラートを移動させ、動物を探してゆく。次に出てきたのは、透明なエビのようなものだった。触角や足があってぴんぴんと跳ねている。ただし、尻尾を背中の方に曲げている。
「これは?」
今度は咲山も知らなかったようだ。山口は気に留めない様子で答える。
「ソコミジンコだな」
「ふええ? 土の中にミジンコがいるですかー?」
今度は山口が可野に答える。
「ああ、ミジンコといっても、ケンミジンコの方だがな。土壌性の種があるんだ」
「うわうわ、これも可愛いですー!」
朱音はまた首を捻る。その透明で硬い感じは、確かにクリスタルの細工物を思わせる気もするが、可愛いと言っていいのか?
次にモニターに出てきたのは、細長い『虫』だった。足も毛もないつるりと長いもので、透明で身体の中に何か詰まっているのがよく見える。その動きから一方が前なのは何とか分かるが、頭らしいものはない。
その虫は身体をくねらせたり伸ばしたり、伸び縮みはしないがどんどん身体を曲げ伸ばしして蠢くのだ。それは控えめに言っても不気味な映像だった。
「うわあ、今度は何ですかー?」
「線虫だな。回虫とか蟯虫とか、寄生虫のイメージが強いんだが、土壌には自由生活のものが沢山いるんだ」
「ふわああ、凄く可愛いですー!」
え?
朱音は改めて彼女に視角を集中した。それはいつも通り、本人が一番可愛いという言葉がしっくり来る小柄な女子で、その表情は無邪気と言っていいくらいに明るい。彼女の言葉が、素直な本心であることは間違いない。
そして朱音は、回りの様子にようやく気が付いた。先輩達も梶本も、不思議なものを見る目で彼女を見ていた。教師の山口も困惑の表情だった。
その山口がまず表情をほぐした。
「よお、咲山。お前とこの新人、大したものじゃないか」
その一言で、全員が表情を緩めた。
「あれが可愛いって言えるのは、確かに大したものよね。可野さん」
咲山の言葉に、可野がむしろ不思議そうだ。
「ふえ? でも、あんなに可愛いじゃないですかー」
そして一同の背中を叩くように山口の声が響いた。
「こんな調子だ。後は各自で探してくれ」
彼は図鑑のページを広げてクマムシの図を示し、特徴を説明した。
「数が多くはないから、気長に探すんだぞ」
「「「はい」」」
その声を号令のように、全員が動き始めた。思い思いに席を決め、顕微鏡を用意し、自分が準備した装置からサンプルを取る。もちろん朱音もそんな風に準備し、いよいよ顕微鏡観察の段階だ。
まずはシャーレの底からピペットで水を吸い上げてプレパラートを作る。それをステージに乗せ、顕微鏡の光源をセットする。それから腰を落ち着け、片目を閉じ、開けた方の眼を接眼レンズに当てる。
これで見かけの上ではみんなが顕微鏡観察をする姿と同じになる。だが彼女の苦労はここからなのだ。
まずは視界を最大限に絞り、目の前の方向、親指と人差し指で囲んだ範囲しか見えないようにする。次にこれを接眼レンズの範囲に固定する。それでようやく視野の中に明るい円形の映像が浮かび上がる。
だが、気を抜くと視野が広がり、すると周囲の光が入ってきて、問題の映像が見えなくなる。再び視界を絞っていっても、位置がずれて上手く定まらない。
彼女は何度も顔を上げ、目をしばたかせ、首を振る。時折り額の汗を拭いては、また接眼レンズに向かう。
その時だった。不意に声が聞こえたのだ。
「先生、教師用を使わせて貰っていいですか?」
顔を上げると、それは星川だった。彼は山口の承諾を目で確認すると、今度は朱音に顔を向けた。
「間宮、あれを使わせて貰え。モニターで見るなら簡単だろう」
え? まさか秘密がばれたのか?
激しい不安と恐怖に立ちすくむ朱音だった。でもすぐに咲山の声が聞こえた。
「ああ、なるほどね。間宮さん、顕微鏡苦手なの? いるのよ、時々そういう人。確かにあれの方が見やすいものね」
彼女の声には何の影もない。つまりそう珍しいことではないらしいのだ。朱音の秘密がばれた訳ではなかったらしい。
彼女は安心して、まず自分の使った顕微鏡を片付け、それから教卓にサンプルを運んだ。山口が来て、モニターの扱いを教えてくれ、それで彼女も液晶画面を見ながら観察が出来るようになった。
しばらくして声をあげたのは、やはり咲山だった。
「いたわよ」
「うわああ、見たいです、見たいです!」
真っ先に叫んだのも、やはり可野。彼女が立ち上がると、他のみんなも腰を上げた。
だが飛びついて顕微鏡を奪いかねない様子の可野を、咲山はその手で押さえる。
「待ちなさい。まず先生に見て貰わないと、ね」
「どれどれ」
山口は押っ取り刀で咲山から顕微鏡の接眼レンズの位置を引き継ぐ。
「ああ、間違いないな。元気に動いてるなあ、ほら」
そう言って空けてくれた場所に、すぐさま可野が収まる。
「うわあ、これ、これです! 凄いですー、やっぱり可愛いですー!」
「はいはい、もう交代よ」
きゃいきゃいと騒ぎながら何時までも顕微鏡に取り付こうとする可野をあやしながら咲山が後ろに並ぶ部員の列を捌く。皆それぞれに感嘆の声を漏らし、順次入れ替わる。そして朱音の番になった。
彼女は椅子に腰を下ろし、眼を顕微鏡に当て、神経を集中した。ちらりと明るい視界に蠢く何かが見えた気がした。だが、やはりその視界を維持するのが難しい。
その時、後ろから声が聞こえた。
「間宮、カメラ使うんじゃなかったのか?」
それは星川だった。その声で朱音はようやくそれを思い出した。急いで自分の机からカメラを取り上げ、昼に教えられたとおりにセットをする。
それから改めて星川の指示の元、カメラを接眼レンズに押し当てる。幾つかの設定を修正し、位置を微調整してゆく。すると背面の液晶画面に映像が現れた。
それはほぼ透明な、イモムシより短い虫だった。聞いたような足はあるが、あまりはっきり見えない。むしろウジ虫に近い印象で、あまり可愛いとは思えなかった。
だが、それを後ろから覗いていた可野は甲高い歓声を上げた。
「わわ、写った、凄いー!、朱音ちゃん、撮って!」
「そうだ、そこでシャッター」
星川の無愛想な声に押されてシャッターを切った。一瞬液晶が真っ暗になり、すぐに撮影した映像が再生される。
「貸してみろ」
星川は朱音が手渡したカメラを操作し、それを返して見せた。再生映像が拡大表示になっていて、それを見ると、問題の映像は盛大にブレていた。
がっくりと肩を落とす朱音に、無愛想なままの声が響く。
「最初はそんなもんだ。すぐ馴れる。メモリーカードは空だから、一〇〇枚以上撮れるからな」
それから朱音は更に指示を聞きながら何枚か撮影した。そして一同は各自の顕微鏡の元に戻った。
やがてあちこちから発見の声が上がり、可野からもひときわ派手な歓声が上がった。
そして朱音もそれらしいものを見つけた。ただし格好がかなり違っていて、さっき見たものより太短く、それに茶色の固い殻のようなものに包まれている。それでも指のような足が何本も出ていて、それらしくもある。
これは誰かに聞かなければならない。辺りに視野を広げたが、皆それぞれ顕微鏡にしがみついている。
とにかく声をあげようと口を開いた。
「あ、あの……」
「お、見つけたか?」
やはりまず返事したのは星川だった。彼はモニターを一目見て、それから声を高めた。
「先生、これは何ですか?」
すぐにやってきた山口はモニターを見て弾んだ声をあげた。
「お、やったな! トゲクマムシ系だ」
「うわわ、ホントですかー?」
真っ先に飛んできたのはやはり可野。すぐ後に咲山。そして残り二人。その横で星川が山口と遣り取りしている。
「随分形が違うんですが」
「ああ、これはな、背中にキチン板が発達してるグループで……」
朱音は星川が山口から受ける説明を聞き、自分の見つけたその生きものをモニター越しに眺めた。すると、次第に仕組みや構造が分かってきくる。
それは何だかよくわからない生きものだったものに、目鼻が付いて来るのが見える、そんな不思議な体験だった。それに合わせて茶色の塊が可愛くも思えてくる。
その後でそれも写真に撮った。もちろん顕微鏡を操作して接眼レンズの方から撮るのだ。横では可野がもっとああしろこう撮れと注文を付け続けていた。その物言いはちょっと赤城にも似ていて、朱音はおかしくなった。
観察が終わると全員で山口に礼を言って、それから化学実験室に戻った。星川がコンピュータを起動し、デジカメのデータを取り込む。可野があれもこれもと何枚も印刷を求め、出来上がった一束の画像を抱え、ほくほく顔だった。