先輩達と昼食を
三人はすぐに化学実験室についた。可野は相変わらず躊躇無くノックする。
「こんにちはー。お弁当食べに来たですー」
すると部屋の中から声が聞こえた。
『あら、本当に来たのね』『いやいや、何と言っても積極的なのはよいことだ』『ああ』
そしてまた軽い足音の後に、咲山がドアを開けてくれた。
「よく来てくれたわね。それも……三人ともなの? 嬉しいわね」
部屋の真ん中の机に、三人が腰を下ろしていた。咲山に誘われるように入った新入生三人は、通路を隔てた隣の机に席を取った。可野に押し込まれて端っこに朱音が座り、通路側に可野が、可野の向かいに梶本が座った。
通路を隔てて、可野の横には咲山、その向かいには赤木が、そして赤木の向こうには星川が座っていた。可野はそんな配置を見回して首を捻っていた。
「どうしたの、可野さん、何か気になる?」
「んーと、両端が遠くないですかー?」
可野のあどけない声に、咲山も辺りを見回し、それから言った。
「そうね、星川ッチ、あっちへ行く?」
「あ? ああ」
星川は無愛想な声を出すと、ゆっくりと腰を上げた。それからすたすたと歩いて、反対側から梶本の隣、つまり朱音の向かいに腰を下ろした。
「これでいいかしらね?」
「んーいいと思うです。それじゃあ、いただきまーす」
無邪気とも言える可野の声に、何人かが唱和した。もっとも先輩達はとうに食べ始めていたのだが。だがとにかく、改めて食事が始まった。
可野は朱音の弁当を覗き込んだ。
「わあ、綺麗なお弁当ですー。あかねちゃんは自分で作るですか?」
「え、うん」
朱音は料理が出来た。これは娘が普通の女の子だと信じたい母親のお陰だ。とにかく女の子らしいことは何でも教え込んでくれたのだ。それに料理は理科の実験に通じる面白さがある。
「すごいですー。私のはママ作だけど、ちょっと手抜きですよ」
朱音の見るところ、彼女のそれも十分に綺麗なお弁当だと見えた。ただよく見ると一品は冷凍らしかった。
咲山が可野に声をかけてきた。
「可野さん、よくクマムシを知ってたわねえ」
「はいです、私、図鑑とか沢山読むです。クマムシって無敵動物なんですよねー?」
「別にそんな怖いものじゃないわよ」
笑いながら答える咲山だった。彼女はとても生物の知識が豊富そうだった。そう言えば昨日は花壇の花も雑草の花も全部教えてくれた。可野もずいぶん知識があるようで、そんな先輩に食いついて、結構盛りあがっていた。
反対側では赤木と梶本も遣り取りを始めていた。それは赤木が取り組んでいることの説明らしい。内容は化学の分野のようだったが、朱音には聞いてもよくわからない話だった。だが梶本は結構それについて行けているようだった。
星川は何も言わずパンを頬ばっていた。しかし黙ったままでも回りの会話に耳を傾けているようだった。
朱音はと言えば、初めての多人数の雑談と、これも初めての賑やかな食事の場に目を回しそうだった。何しろ学校ではずっと一人で会話もなく過ごし、家庭での食事も母と二人きり、外食の機会もほぼなかった。
そんな中、可野が言った言葉が引っかかった。
「でも、クマムシって、小さい動物なんですよね?」
「もちろんそうよ。観察には顕微鏡が必要ね。だから生物実験室に行かなくちゃね」
朱音はどきっとした。だが今は何も言えない。二人がやり取りするのをただ聞くだけだ。
「そんな簡単に使わせて貰えるんですかー?」
「それは大丈夫。生物の先生は凄く理解があるのよ」
咲山の自信に満ちた言葉。それを赤木が追いかける。
「そうとも。だいたい生物教室で何かする時は、まず爆発はないからなあ」
「馬鹿なこと言わないでいいの!」
すぐさま咲山の叱責が飛ぶ。でも彼女はすぐに調子を変えた。
「そんな訳で、今日は生物実験室だから。本当はここに集合して移動するつもりだったんだけど、もうみんないるから、直接集合でいいかな?」
「おおとも、その方が話は簡単だ」「ああ」「はいです!」「……(無言で頷く)」
朱音としては、心配な問題はあるものの、今は静観するしかない。だから黙ったままでいた。
その日の放課後、朱音はまた梶本に先導されて廊下を歩いていた。生物実験室は化学実験室の真下だった。
実験室には既にみんなが揃っていて、それに初めて見る教師が一人。中年と言うにはやや若い印象の、ひょろっとした男だった。
「こっちが生物の山口先生。変な生きものには凄く詳しいの」
咲山の紹介は褒めているのかどうか微妙な印象だったが、その山口という教師には嬉しいようで、ニコニコと目を細めていた。
「それで、クマムシを見たいという科学部期待の新人は誰だい?」
「はいはーい、私ですー」
可野は相変わらず躊躇いなく手を挙げる。
「ほう、よく知っていたね」
「はいです。私、図鑑で読んだです。でも、どうしても見つからなくて」
山口はかすかに声をあげて笑った。何だか嬉しそうだった。
「まあね。クマムシのことを書いてる本は多いけど、探し方まで書いてるのは少ないからね。僕の知ってる中では、中高生で自力で探し当てたのは咲山だけだからねえ」
咲山は照れたように笑った。可野は尊敬の目で彼女を見た。でもすぐに山口に目を向ける。
「それで、見られるですか?」
可野の言葉に、山口はニッと唇を引いた。
「ああ、意外に普通にいるものでね。だけどそれなりの操作が必要だから、今日は準備で、見るのは明日だな」
それを聞いて、朱音はそっと息をついた。今日はまだ顕微鏡を扱わなくていいらしい。
山口は全員にピンセットとシャーレを持たせると、実験室から外に出た。校庭の隅に大きなクスノキがあり、周囲に数本の木立がある。その一角は、わずかながら森のような趣になっていた。
山口はそこで木の根本のコケや樹皮を採集するように指示した。幹の少し高いところにもコケが生えていて、それもいいのだそうだ。
それからまた実験室に戻り、今度は採集のための装置を作る。もっともそれはごく簡単なもので、ガラスのロートにゴム管を繋ぎ、ゴム管の反対側をピンチコックで止めるだけ。後はそれを固定するスタンドを用意して、それで終わりだった。
そんな中、例によって可野の賑やかな声が聞こえる。
「クマムシって高熱でも放射能でも死なない無敵生物なんですよね」
「そんなことないわ。ただの小さい生きものよ。ねえ、先生」
「まあな。休眠状態に入ってない時はひ弱だしなあ」
「でも、休眠に入ったら、無敵なんですよねー? 確か一〇〇年前のが生き返ったって聞いたですよ」
「まあ、とても耐久力が強いのは嘘じゃないんだけどな。だが、一〇〇年生きるというのも、しっかり確認された話じゃなくてね……」
そんな会話を聞いていると、朱音にも次第に好奇心が沸き上がってくる。明日は顕微鏡を使ってこの試料からその生きものを探すのだろう。
ただしここで大きな問題がある。実は、朱音にとって顕微鏡はとんでもない難物なのだ。
普通の人は接眼レンズに片眼を当てて反対側の目を閉じればレンズの内側だけが見える。ところが朱音の場合、その形をとっても頭の回り全部が見えている。レンズの中だけが見える、という訳にはいかないのだ。
対応する方法はなくもない。視界をぎりぎりまで絞ってレンズの大きさまで縮める。それで一応は覗くことは可能だ。しかし視野をそこまで小さく絞るのはそれだけでかなり疲れることだ。
しかもその視野をレンズに固定しなければならず、しかも一定時間それを維持しなければならないのだ。これはさらに困難で、それにひどく集中力を要するものだった。一〇分もすると激しい頭痛がしてくるほどだ。
そんなことを考えていて、ふと思い出したことがあった。それは昨日のことだ。
昨日、彼女は設定して貰ったデジカメで撮影した。カメラの後ろには大きな液晶画面があり、レンズに映っている映像がそこに表示されていた。朱音はそれによって、みんなと同じ映像を眼にすることが出来はしなかったか?
そこで彼女は考えたのだ。あれを使えば朱音はみんなと同じような映像が見られる。あれをここで使えないか?
でも、それは本当に可能なのか? どうすれば出来るのか? 朱音にはそれが分からない。誰かに聞けばいいのだろうか? でも、誰に?
ふと思いついた姿は、自分の前で、今は背中をこちらに向けている。
「あの……」
声が出たのかどうか不安だったが、彼はすぐに振り返った。
「お?」
朱音は星川の無愛想な顔に不安を覚えた。だが向こうが反応した以上、何か言わなければ。
「あ、あの……」
「何か聞きたいことがあるのか?」
その声はやはり無愛想だったが、どこかに優しげな響きも感じられた。だからようやく声を絞り出せた。
「顕微鏡で、写真って……撮れるのかなって……」
尻すぼみで消え入りそうな声だったが、彼はすぐに分かったようだ。
「ああ、デジカメで撮るのか? 出来るぞ。結構簡単だ。デジカメは持ってるか?」
朱音が首を振ると、彼は調子よく続けた。
「だったら部のを使えばいい。明日出してやるよ」
朱音が頷くと、彼はそれで終わりと見たか、すぐにまた背を向けた。
作業のほうは、採集してきた試料をガーゼに包んで漏斗に入れ、そこに水道水を注ぎ込んで終わりだった。奇妙なやり方に思えたが、昔からある方法らしくてベールマントか何とか、山口先生が教えてくれた。一同はその場で解散した。