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9 手習いの真似事


 きゅう? と私は自分の胸が苦しくなった理由が分からなくて早々に筆を戻した。さっと場所も避ければ雨竜さんが戻ってくる。美しい所作で、今度は筆先の墨を私がしたように減らして確認して、そして私の名前の隣に雨竜、と書く。のだけど、空白を上手く作り出せずに名前は滲んでしまった。


「うぅむ。やはり難しいな」


 はは、と雨竜さんは苦笑する。子どもが初めて筆を持ったような拙さで、苦手というのは本当なんだなぁと私は思う。


「深琴はこんなに小さく書けるのに僕には難しいようだ。深琴は凄いなぁ」


「え、い、いえ、そんな。もっと大きく書けば、良かった、です」


 予想外に褒められて私は動揺した。まさか私の名前の横に書くなんて思わなくて、文字の小ささを凄いと言ってもらえるなんて思ってなくて、そうなると分かっていたならもっと大きく書いたのにと思った。慌てすぎて口に出ていたけれど。


「なら、もう一度頼もうか」


 雨竜さんは言質を取ったとばかりに笑むとまた場所を空けた。やられた、と思って私は雨竜さんを思わず見る。雨竜さんは楽しそうに目を細めて笑うだけだ。弧を描いた目も唇も楽しそうで、綺麗で、逆らえなくて、私はうぅ、と小さく呻いて再度筆を手に取った。


 今度は大きめの文字で名前を書く。雨竜さんが書くことを見越して、左半分に余白を残しながら。


「あぁ、良いな。今度は小さくない」


 雨竜さんは満足そうに笑う。私はそそくさと場所を譲ると雨竜さんが真剣に自分の名前を書くのを見守った。子どものような拙い文字は変わらないけれど、今度は滲まないで書けている。どうだ、と目をキラキラさせて雨竜さんが言うから、上手です、と答えた。


「手習いの真似事もしてみるものだな。だがどうにも歪だ」


 自分が書いた字を眺めながら雨竜さんは首を傾げる。バランスを取るのが難しいから綺麗に見えるにはかなり練習をしないとならないだろうと私は思う。深琴、と雨竜さんが私を見た。


「書いてみてもらえないか。見比べてみたい」


「え」


 驚いたけれど見比べるなら自分の字では多分ダメで、雨竜さんは言うや否や場所を空けてしまって、書かないなんて許してもらえなさそうだった。私は空いている箇所に雨竜さんの名前を書く。それを横から覗き込む雨竜さんは、何だか、嬉しそうに見えた。


「ふぅむ。やはり深琴が書くと違うな。慈雨でももたらしそうだ」


 雨竜さんは文字を眺めながら一頻り感想を漏らす。どうだ、と私を見るから何を訊かれているか判らなくて私は目を白黒させた。


「書くのは楽しかったか?」


「え? えっと、その、そう……ですね」


 楽しくなかったわけではないから肯定しておいた。雨竜さんは楽しそうだし、間違ってはいないと思う。それに墨がぽたぽたして狼狽える雨竜さんは、こう言ってはなんだけれど、少し可愛いと思った。失礼になるから言わないけれど。


「深琴、これは僕の思いつきだから嫌なら嫌だと言ってほしいんだが」


 雨竜さんが静かに切り出す。天気の話でもするように静かで、ありふれている事柄のようだった。深い声でゆったりと落ち着いたトーンは私を落ち着けてくれる。


「少し手習いの真似を続けてみたい。字を書いて、物語の字を追えばきっと読めるようになる。僕が語り聞かせるには些か力不足だ」


「そんなことは」


 傷つけてしまっただろうかと思って慌てる私に、雨竜さんは口を開いて言葉を続けた。私は自分の言葉を飲み込む。


「だからお前が読めるようになって、僕に語り聞かせてくれ。お前の語り口と聞き比べてみたい」


「……え?」


「駄目、だろうか」


 寂しそうな目で見られて私は雨竜さんから目を逸らした。そんな顔をするのはずるいと思う。時間を稼いでみたところで私の答えはひとつしかない。何処にいたって変わらない。


「分かりました」


「良いのか?」


 雨竜さんの顔がぱっと明るくなる。私はそれを見て驚く。あぁ良かったという安堵の表情ならこれまでだって沢山見てきたけれど、こんなに嬉しそうな顔が見られたのは初めてな気がした。


 こくり、と頷けば雨竜さんは微笑んだ。今日だけで何度微笑んでもらっただろう。こんなに優しく、慈しむような笑みをもらえるようなことをしてきただろうか。


「ではな、深琴。この部屋は開放しておこう。好きな時に入り好きな時に手習いに使うと良い。僕も字の練習に来る。聞きたいことがあればいつでも聞いて良いぞ。遠慮することはない。学びとは、反復することだからな」


 何故か読み書きの練習をすることになった私は、雨竜さんの言葉にただ頷いたのだった。



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