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80 言祝ぎ


 完全に朝陽が昇って朝を迎えた頃、宴はお開きとなった。山神様は随分と桜の花びらを落としていたけれど、花が完全に落ち切るまではまだ還らないからいつでも訪れて良いと雨竜さんにも許可を出していた。雨竜さんは信じられないものでも見るみたいに表情が固まっていた。朝陽でも見にくれば良いと山神様が言ったところから考えるに皆は寝ていたけど山神様は起きていたに違いないと私は思う。


 婚礼衣装は山からのお祝いだと梢枝さんと晴嵐さんが言って、白無垢も色打掛も渡してくれた。仰天して蒼白になったり恐れ慄いたりする私に二人は笑って、これから山を良くしていくための先行投資だと思ってくれと言った。人の言葉を晴嵐さんは学びすぎだと思うと私は何とか返した。


 私たちは水底の邸へ帰る。雨竜さんと水希ちゃんと手を繋いで、私は濁流に飲まれる感覚から返って目を開けた。相変わらず薄暗い邸の玄関は、それでも私たちを迎えてくれた。


「お着物は干しておきますね。わたくし、夜通しの宴会なんて初めてですっかり草臥(くたび)れてしまいましたわ。申し訳ありませんけれど、今日は少し休ませて頂けますかしら」


 婚礼衣装を抱えてテキパキと履物を脱ぎながら水希ちゃんが言う。勿論だ、と雨竜さんが頷いた。


「ゆっくり休みなさい。お前ももう自分を痛めつける必要はない。僕だって料理くらいできるぞ。これからは分担させてくれ」


 まぁ、と水希ちゃんは驚いて目を丸くした。


「叔父様、卵粥以外にも作れたんですか」


「作れるさ。味の保証はできんがな」


 はぁ、と水希ちゃんは頭を振った。雨竜さんが苦笑する。


「別に負担ではありませんのよ。でも、叔父様の手料理を食べてみたく思います。今夜は使い切りたい食材もありますから、また相談させてくださいませ」


 承知した、と雨竜さんは頷く。私も、と私は思い切って口を開いた。二人が私を見る。急に向く視線にはまだ驚いてしまうけれど、二人の目には純粋な疑問が映っていることを知っているから私は怯まずに言葉を続けた。


「もっとできること、増やしたいと思うから、お手伝いさせてください。水希ちゃん、まずは私に(たすき)掛けを教えてください」


「……奥様が張り切ってらっしゃるようなので、そうですね、今夜の洗い物からお願いしましょう」


 水希ちゃんが微笑んだ。私は嬉しくなってコクコクと頷く。それなら僕も、と雨竜さんが続けるから三人も台所に立てるほど広くありませんと水希ちゃんがぴしゃりと雨竜さんに言った。雨竜さんがきゅうと肩を縮めるのが何だか可愛らしくて私は笑ってしまう。


「あの、意地悪で言ってるんじゃありませんのよ。奥様が慣れてきたらお二人でして頂ければ良いと思いますし。でも後片付けの時間くらい、わたくしが奥様を独占したって許されるでしょう?」


「む、そうか、そうだな」


 ふむ、と雨竜さんは何事か考えたようでひとり得心して頷いた。私はよく分からなくて首を傾げたけれど、水希ちゃんと雨竜さんが納得しているようなのでまぁ良いかと思い直す。それではわたくしはこれで、と水希ちゃんが立ち去ろうとしてふと足を止めた。私たちに向き直るとふわりと笑う。


「言い忘れていました。叔父様、奥様、ご結婚おめでとうございます。どうぞ幸せにおなりくださいね。お二人のこれからの道行きに幸多からんことを」


「ありがとう、水希」


「あ、ありがとうございます」


 綺麗な微笑に見惚れてしまってお礼を言い損ねるところだった。雨竜さんの言葉で我に返って私は頭を下げる。では今度こそ、と水希ちゃんは軽い足音をさせながら廊下の奥へ向かってしまった。私は雨竜さんに支えてもらいながら履物を脱ぐ。早いところひとりでできるようになりたかった。


「疲れたろう、深琴。少し寝ていたようだがあれだけではな」


 私の手を引いてくれながら雨竜さんが言う。徹夜したわけではないけれどフラフラになりつつあった私は正直にはいと頷いた。僕たちも少し休もう、と雨竜さんは言って寝室へ向かう。テキパキと雨竜さんが布団を敷いてくれる間に、私は着物の帯を(ほど)いた。浴衣に着替える間、雨竜さんは律儀に背中を向けてくれていた。


「夜までぐっすり寝てしまいそうです」


 浴衣の帯を締めて私が振り向くと雨竜さんも音で判断したのか振り向いた。僕もだ、と雨竜さんは笑う。敷いてある布団はひと組だけだったけれど、私はあまり疑問にも思わなかった。二人で同じ布団に入ってぬくぬく暖を取りながら寝るのがもう当たり前のように感じた。


「深琴」


 雨竜さんが優しい声で私を呼ぶ。伸ばされた手に自分の手を重ねて私は自分から雨竜さんに近づいた。ぎゅうと雨竜さんは私を抱きしめる。温かい。そっと離れた熱は雨竜さんの目に移動したみたいで、私をじっと見る黒い目は優しいのに落ち着かなくなった。穴が開いてしまいそうなくらい見られている気がした。


 ふ、とその目が伏せられた。長い睫毛が雨竜さんの目を隠してしまう。深琴、と雨竜さんがもう一度私を呼ぶ。何だか緊張して、はい、と答える自分の声が掠れていた。


「僕は至らない生き物だ。弱くて、脆くて、不甲斐ない。ひとりで死ぬこともできない。兄に看取ってもらいたがり、お前に殺して欲しがった、その癖に先を望む浅ましい生き物だ。

 対してお前は精一杯に足掻き、生きようと藻掻くことのできる生き物だ。お前のあの、目。助かりたいと求めたあの目は、僕を突き動かした。僕を落とし、お前が生きられるようにと願った僕を神に押し上げた。誤算は僕がお前に懸想し願いが呪言(ことほぎ)となったこと。お前はそれさえ、祝福の言葉に変えてしまった。ありがとう」


 いいえ、と私は首を振る。そんな大それたことはできない。けれど雨竜さんの願いが呪いになってしまったなんてことはないと、それは自信を持って言える。


「お前は決して僕を求めたわけではない。助けてくれとただ、夢中だっただけだろう。たまたま其処に居合わせたのが僕だっただけで、けれど僕はその目に応えたいと思って。あんなに強く求められたのは初めてだった。僕を求めたのではないにしろ、嬉しかった。だから僕が求めるのは違うと思って我慢した。我慢できずに呼んでしまったがそれでも、我慢した。でももう、お前がそれさえ言祝(ことほ)ぎに変えてくれるなら僕は我慢しなくて良いだろうか」


 深琴、と雨竜さんが私を呼ぶ。胸が苦しくなるほど切望する声だった。私だって、こんなの知らない。こんな風に求められたことがない。


「深琴、お前を愛している。言ったな、もらうべき時が来たら頼むと。その躰は水神に捧げられた。僕のものだ。だがお前のものでもあることに変わりはない。だから頼む。お前を食わせてくれ。此処を」


 雨竜さんの手が私の下腹をそっと撫でる。背中を何かが駆け抜けた気がして私は体を震わせた。


「僕のために明け渡してくれ。無論、すぐじゃなくて良い。ゆっくりで良い。無理強いはしない。僕はずっとお前が欲しかった」


 私は目を丸くする。思わず両手が伸びて雨竜さんの頬を包んだ。雨竜さんの目も驚いたように丸くなった。それから何かを堪えるように笑む。


「私、も、雨竜さんのこと、好きです。愛してる、と思い、ます。全部、あなたにあげます。私が持ってるもの全部、あげられるもの全部、あなたが欲しいもの、全部」


 私の欲しかったもの。優しい神様にした、最初で最後の素敵な恋。これからはこの人の伴侶として、一緒に過ごしていきたい。


「お前も僕を求めてくれるか、深琴」


「はい、雨竜さん。私も雨竜さんが欲しいです。雨竜さんの心、想い、私にください」


 雨竜さんの手も私の頬を包む。雨竜さんが綺麗に笑って口を開いた。


「──その願い、聞き届けた」


 雨竜さんが優しい言葉を紡ぐ優しい唇が降ってくる。それを受け止めて、私も微笑んだ。






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