72 迎え
薄暗い邸を進んで私たちは玄関口へ向かう。其処には晴嵐さんが立っていた。紅葉色の目を細めて私たちを認めると笑う。
「深琴サン、ありがとね。流石にじーちゃんにも気付かれちゃったみたい。ちょっと急いだ方が良いと思うから、感動の言葉を交わすのはまた後で」
さぁ、と晴嵐さんが手を差し出すのを取って私は水希ちゃんとも手を繋ぐ。水希ちゃんは驚いた様子だったけれど、私の手をしっかりと握り直してくれた。
「ねぇ、深琴サン、おひいさん。雨竜のおっさんは生きるつもりがあるの? オレが訊いても答えてくれなかった。あんたたちには何か話した? 特に深琴サン、あんた、雨竜のおっさんに昨夜愛されてんでしょ。何か聞いてないの」
「え、あ、あの、その、特別、何も。存在を強めるために、き、キスを、しました」
「あの形で奥手かよ」
「大切にしていると表現して頂けるかしら。奥様が奥ゆかしいんですもの。叔父様は性急にことを運ばない方です」
「えー。何でオレおひいさんに責められてんの?」
真っ赤になっているだろう私は身を縮めた。私と手を繋いだ二人が言い合っている。じんわり手汗を掻いてきた気がするから早く先へ行きたい。
「深琴サン、あんたは雨竜のおっさんに生きてて欲しい?」
唐突に紅葉の目が私を向いて私は息を呑んだ。こくこくと頷いて、勿論とつっかえながらも返す。おひいさんは、と晴嵐さんが水希ちゃんにも視線を向ける。わたくしもですわ、と水希ちゃんは答えた。真っ直ぐに晴嵐さんの目を見つめ返して。
「雨竜のおっさんはそうは思ってなさそうなんだよな。あんたたちのために踏ん張ってるけど、最後まで踏ん張るにはちょっと足りない。だからあんたたち二人、雨竜のおっさんにその気持ち、届けてあげて。あんたたちから直接聞いたら、流石の雨竜のおっさんも目が覚めるでしょ」
「あなたは」
水希ちゃんが晴嵐さんの言葉を遮るように声を発した。晴嵐さんは口角を上げる。水希ちゃんのそれを質問として受け取ったらしい。
「とーぜんでしょ。オレだって、雨竜のおっさんには生きてて欲しい」
「でしたら、あなたも一緒に行きましょう。叔父様に届ける声は多いに越したことはありませんわ」
「……っはは、おひいさんには敵わないな。それじゃ、一気に行くから。口開けてると大変なことになるから閉めた方がいーよ。忠告、したからね」
「え、ちょ、ま」
「待たなーい」
晴嵐さんは玄関扉を開けると一気に飛び出した。引きずられて私も走り出し、水希ちゃんもそれについてくる。いつもは濁流に飲まれる感覚を覚える外は水希ちゃんの記憶だからか、現実の水の中ではないせいか、それとも晴嵐さんの風の力なのか、ふわりと浮いた。と、思ったのも束の間、次の瞬間には風を切って真っ直ぐに進み出す。私は思わず目を閉じた。口も閉じた。髪飾りが飛んでいかないか心配だった。
どれだけ進んだか判らない。くるりくるり、と最後に二度回って私の足は地面を踏んだ。平衡感覚がおかしくなってよろめいたけれど水希ちゃんが支えてくれた。少し頭を振ってから目を開ける。顔を上げれば雨竜さんが膝をついている姿が目に入って心臓がぎゅっと掴まれた気がした。雨竜さんが泣いているように見えたからだ。膝をついて、前屈みになって今にも倒れそうだ。両手で顔を覆っている。開いた口から声にならない慟哭が聞こえる気がした。
「雨竜さん……っ」
「叔父様!」
私と水希ちゃんはほとんど同時に走り出す。私たちの声と足音を聞きつけたのか、雨竜さんが振り返った。涙に濡れた黒い目が私たちを確かに捉える。体をこちらに向けて、それでも信じられないように雨竜さんは手を出すか迷っている様子だった。
怯えた目だった。一体何を見たのだろう。何を聞いたのだろう。泣いてしまうほどの何か。私は胸が締め付けられる思いだった。この人だってもう、散々、責苦を受けて耐えてきた。もう解放してあげて欲しい。もう赦してあげて欲しい。この優しい人をもう、苦しめないで欲しい。
「雨竜さんっ、大丈夫ですか……っ」
「叔父様、何処か怪我を?」
「お前たち、二人とも無事だったか」
いつものように微笑もうとして、ひく、と頬が震えるのを私は見た。泣いていたせいもあるかもしれない。でも彼の中に怯懦があるのを私は確かに感じた。走っていた足を緩めてそっと雨竜さんの前に膝をつく。じっと雨竜さんの目を見つめた。水希ちゃんが怪訝そうに勢いを緩めた私を見た。
「迎えにきましたよ、雨竜さん」
私はそっと言葉を声に乗せる。雨竜さんは明らかに怯えた様子で目を見開いた。私は意識して頬を上げる。愛想笑いになっているかもしれない。それが一番慣れた笑顔だから。でも雨竜さんに見て欲しいのは、そんな笑顔じゃなくて。雨竜さんがくれるような安心する、微笑みなのに。
「雨竜さんが迎えに来てくださるの、待てなくて、ごめんなさい。晴嵐さんに手伝ってもらって、皆で迎えに来ちゃいました」
私は水希ちゃんを見た。手を出して水希ちゃんを招く。水希ちゃんは私の手を取って同じように屈んで膝をついた。二人で手を繋いで雨竜さんに笑いかける。雨竜さんは目を見開いた。私たちの繋いだ手を見て、私たちの顔を交互に見て。
「帰りましょう、雨竜さん。一緒に」
雨竜さんの顔がまた泣きそうに歪んだ。叔父様、と水希ちゃんが呼びかける。雨竜さんの膝に手をついて、優しい声で。
「わたくし、正直に言ってまだ気持ちの整理はつきません。でも、奥様がわたくしを迎えに来てくださったんですのよ。あの奥様が。ちゃんとご自分の言葉でお話になって、わたくしを、抱きしめてくださったんですのよ。母様みたいに。そしてわたくしと叔父様が、家族だと仰るの。
だからわたくし、ひとまず叔父様を迎えに来ました。叔父様も気持ちの整理はつかないでしょう。わたくしたち、話し合いが足りませんもの。いつもわたくしが聞く耳を持ちませんでしたものね。だから戻ったら、沢山お話をしましょう。わたくしがどう感じていたか、叔父様がどう考えていたか。そして沢山泣いて、怒って、最後には笑いましょう。叔父様が赦してくださって叔父様を家族と、呼べたら……すぐには無理でも、呼ぶことができたら、このわだかまりも水に流せると思うんです」
雨竜さんは信じられないものを見るように目を見開いた。水希ちゃんは微笑む。
「でも十八年は長かったです。わたくしたちにとっても。叔父様にもきっと澱が積もっていらっしゃるでしょう。上澄みは綺麗でも底へ手を伸ばせば舞い上がる。でもわたくし、もう、恐れません。わたくしが向けたものですもの。受け止める覚悟は、ありますのよ」
だから帰りましょう、と水希ちゃんは言う。雨竜さんの目から涙が一粒零れ落ちた。




