69 水底の邸で
玄関口だった。雨竜さんにいつも手を引かれて外から戻ってきた時の玄関口。板の間に上がると、ぎし、と私の重みで床が鳴った。静かな邸はどきどきするほどで、その静かさが耳に五月蝿いほどだ。誰もいないかのようなのに、誰かが息を潜めて待ち構えているような気もした。罠を仕掛けて獲物がかかるのを待っているかのような、そんな。
「水希ちゃん……?」
私は呼びかける。山神様がこの邸の内装を知っているかは判らない。でも水の中は水神の領域だと晴嵐さんが言っていた。きっと山神様には判らない。これは多分、水希ちゃんの記憶が見せている景色だ。
この前見た夢。暗い邸の中を這いずる夢。あれが水希ちゃんの見る夢。暗くて、静かで、あまり良くない感情が胸の内に渦巻いている。水希ちゃんも閉じこもっていると晴嵐さんは言っていた。水希ちゃんにも閉じこもりたい時があるんだろうか。それなら少し、解る部分もあるかもしれない。自分の内に閉じこもりたい気持ち。私とは比べ物にならないほどきっと、傷ついているけれど。
邸の中は薄暗い。けれど真っ暗ではなかった。灯りがあるわけでもないけれど、もしかしてこれは、水希ちゃんの目から見た邸の姿かもしれない。こぽ、と空気が昇っていく音がする。いつもの邸のようなのに、知らない場所みたいだ。私が来る前の邸かもしれない。雨竜さんと二人で過ごしていた頃の。
「水希ちゃん……? いるの……? 何処に、いますか……?」
そろそろと私は足を進めた。静けさが怖い。まるで世界にひとりだけ取り残されてしまったかのようだ。私しかこの邸にはいないのだろうか。他の誰も、何処にもいなくて。雨竜さんも、いなくて。
居間に辿り着いて障子を開けた。がらんとして人気はない。奥の台所も覗いてみたけれど鍋のひとつも見当たらない。誰も住んでいないみたいに生活感がなかった。
書庫も覗いてみたし、浴室も、水希ちゃんの部屋も覗いてみた。けれど何処にも誰もいない。私は邸の中をぐるぐると何度も回る。何周したって同じだった。誰もいない。静かだ。私だけが、此処に取り残されてしまったみたいだ。何処にも行けない。何度同じところを巡ったところで、何にもなれない。やり直せない。
「水希ちゃん、何処……?」
ふと思い立って振り返る。今まで前にしか進んでいなかったけれど、開けていない部屋を思い出したのだ。雨竜さんの部屋。訪れたことはないけれど場所は知っている。此処へ来てから夜は同じ寝室で過ごすようになったから雨竜さんはもうその部屋では寝ていないけれど、此処がもし、私が来るより前の記憶なら。もしかして。
「水希ちゃん、此処にいますか……?」
声をかけて障子に手をかける。開けないで、と中からか細い声が聞こえた。水希ちゃんの声だった。私は安堵してその場に座り込む。障子は開けないまま、扉を一枚隔てて話しかけた。
「いきなり来て、ごめんなさい。あの、お話、できませんか」
「わたくしが話すことは、何も」
「そ、それじゃ、私の話、聞いてくれませんか」
「……」
水希ちゃんからの返答はない。許可もないけれど拒否もなくて、私は思い切って言葉を続けた。もうやめて、と言われるまで話すつもりだった。
「何から、話せば良いか、判らないけど、でも、私、言わなくてはいけないことがあって。私、此処に、この山に来たことが、あります。昔、十歳の時。今から十八年前。住んでいた家の近くにあった教会の、神父様が連れてきてくれました。私を此処で、死なせるつもりだった、みたい」
先ほど山神様に見せられた山の記憶。神父様。パンをくれた優しい人。方法は酷いけれど私を憂えんでくれた人。いっそ死んだ方が幸せなのではないかと私の首を絞めた人。それは確かにあの人なりの優しさだったのだと思う。山神様は身勝手だと言っていたし実際、身勝手ではあるのだけど、でも。私に向けられたそれはもしかして、人の世で私自身に向けられた純粋な優しさだったのかもしれない。パンを与えるのと同じように施された、救いの手だったのかも。どうせ生きられないなら今、此処で。
「でも私を、助けてくれた方がいました。最後の力を振り絞って、助けてと願った私の望みを、叶えてくれた。神父様は滝に落ちて、川を汚してしまった。助けてもらった私は必死に山を、降りました。多分、うろうろしていたところを保護されて。私の親は私の親であることを放棄していた、から、それが分かって私は国に、保護されました。それ以降は会ったことも、ありません。一度だって連絡も、来なかった。
ひとりで生きていけないのに、ひとりにならない方法が判らなくて、何をしてもひとりになってしまって、ひとりでは生きられなくて、誰にも要らないと言われて、私も私が、要らなくて。気づいたらこの山に足が向いていました。忘れていたのに。この山であったこと、すっかり忘れて、それなのに此処へまた来てしまった。そして助けてもらった命を、私は、自分で捨ててしまった」
何度も水希ちゃんは言っていたのに。自分で捨てた命なら、と。水神様に捧げるようにと。雨竜さんのものだと。
「雨竜さんが私を助けてくれたことで何があったのか、聞きました。本来なら私、こんな風に迎え入れてもらえるわけ、ないのに。水希ちゃん、私に、怒ってもおかしくないのに。それどころか、色々教えてくれて、優しくしてくれました。忘れたままの私に、思い出しても何も言わない私に、諭して、くれました。
だから私、ちゃんと言わないと。ごめんなさい。それと、ありがとうございます」
「──」
障子の向こうで息を呑む音が聞こえた気がした。静かな邸では微かな音もよく聞こえる。空気が震える音さえ、聞こえる気がした。障子の向こうから空気が私の耳に音として届く。
「……わたくし、決めていたんですのよ。あなたがいらした時に。どうすれば叔父様とあなたに、復讐ができるかを考えて。叔父様は思わずあなたを助けてしまったようでしたから、すぐ進言しました。この方を、妻として娶りなさいと。夫婦の契りを交わし、願いを叶えて差し上げなさいと。そうして僅かでも生き永らえ、共に逝く黄泉路が寂しくないようにと。この方ならきっと、共に在ってくれるでしょうと、わたくし、囁きましたのよ」
笑いながら泣いているような声だと、思った。