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60 いつもと違うこと


 水希ちゃんの揚げてくれた春の山菜を天ぷらにした夕食を囲んでいる最中、雨竜さんが口を開いた。


「晴嵐から教えてもらったんだがな、そろそろ桜が咲くそうだ。花冷えするのではと思う寒さだが春は来ているぞ。今夜はまだ雨が降るだろうが明日あたりどうだ。深琴、水希、お前も、一緒に行かないか」


 雨竜さんの好きな桜。私は二つ返事で頷いた。数日前に見に行こうと約束した桜だ。見事な眺めだと雨竜さんが教えてくれたし、晴嵐さんも自慢そうにしていた。勿論まだ満開にはならないだろうけれど、咲き始めを見るだけでも春を感じられる。


「まぁ。わたくしは結構ですわ。お二人で行ってらしたらよろしいかと」


「そう言うな。お前も久しく外には出ていないだろう」


 雨竜さんが宥めるように水希ちゃんに言う。水希ちゃんもこの邸から自由には出られないのだろうか。そういえば水希ちゃんが出ているところを見たことがないと思い至って私は二人を見守った。


「でもその、お邪魔、でしょう?」


「そ、そんなこと、ないです。一緒に行きましょう、水希ちゃん」


 目を伏せた水希ちゃんが本当は外に出たいのではと感じ取って私は思わずそう言っていた。差し出がましいことを言っている自覚はあったけれど、ずっとこの川底にいては薄暗くて色が少ない。花を見て気分転換をした方がきっと良いと思う。


「それとも桜は、あまり好きじゃない、ですか……?」


「そんなことはありません。この香櫛山の花嵐はそれはそれは見事なんですのよ。まだ……満開ではないでしょうけど……」


 思わず前のめりになって否定した水希ちゃんがはたと気づいて俯いた。可愛い、と思って私は微笑んだ。


「此処の桜が、好き、なんですね」


「……奥様だってわたくしと同じ心持ちになります。本当に見事なんですから」


「楽しみ、です」


「決まりだな」


 私と水希ちゃんのやり取りを不思議そうな、複雑そうな、それでいて嬉しそうに見ていた雨竜さんが穏やかな声で締め括った。水希ちゃんは少し頬を染めて、いつもより早めに食べ終わるとさっさとお膳を下げてしまう。それを見て雨竜さんは苦笑するように笑みを零して、私は何だかその光景をとても温かい思いで見つめていた。


 夕食後、雨竜さんがお風呂から上がるのを待ちながら私は廊下に出て真っ暗な川底を眺めていた。昼間は微かな明かりが頭上から差し込んできらきら揺れる水面が多少なりとも見えるけれど、夜になってしまうと本当に真っ暗だ。この空気の膜の向こうに夜の川が広がっているなんて想像もできないくらい真っ暗で、でも静けさに耳を澄ませれば水面を打つ雨音が聞こえてくるからやっぱり此処は水の底なんだと実感する。


 こぽ、と泡が昇っていく音がした。魚が泳いだのだろうか。足元に置いた持ち運び式の行燈ではよく見えない。行燈を少し持ち上げて暗闇の向こうへ翳してみた。微かな灯りで闇の奥を覗こうとして目を(すが)める。空気の泡が螺旋を描きながら昇っていく様子が見えた。速いそれを目で追って空気を生み出す原因を知りたくて行燈を翳す手を伸ばす。欄干に身を乗り出して、そして。


 ぐるり、と世界が暗転した。


「奥様⁉︎ 叔父様、雨竜叔父様!」


 ごぼごぼと耳を轟音が襲った。それに紛れて水希ちゃんの声が聞こえた気がする。上も下も右も左も判らない。口の中に水が入ってきて息ができなくなった。目を開けても暗闇しかなくて、さっきまで薄暗くても見えた邸は何も見えなくなっていた。真っ暗な夜にひとり投げ出されて、体の自由はきかなくて、手足を動かしても水の中では鈍くしか動けない。私は、川の底にいた。


 もう体はないはずなのにどうして息ができなくなるんだろう。もう死んでいるはずなのに。もしもこれが私の記憶で保っている人の形なら、体の機能もそのままなのかもしれないけれど。このまま息ができなくなったら私、また死ぬんだろうか。


 水は冷たかった。指先から冷えていって、もう感覚がない。下手に動いてしまったからもうどっちが上なのか判らない。それとも宮が水底にあるなら下に向かうべきなのだろうか。何にしてももう、動けそうにないのだけど。


 ぐ、と体に巻きついたものがあった。水草にでも絡まってしまっただろうか。それにしては柔らかくて、温かい気がする。


 目を開けたらぼんやりと白が浮かび上がっているように見えた。でも暗くて判らないし、水の中で私の目ははっきりと物が見えるわけではない。でも縋るように腕を伸ばせば、抱きつくことができた。(かじか)んだ手に、とくん、とくん、と拍動が届いた気がする。生きてるんだ、と思った。


「奥様! 叔父様!」


 水希ちゃんの声が聞こえた気がした。それと同時に酸素が入ってきて私は咳き込む。まだ目はよく見えない。そのまま抱えられて、ざぶん、とまた水の中に入る音がした。でも今度は冷たくない。温かい。


「深琴、深琴」


 雨竜さんの声がする。私はそっと目を開けた。頭の天辺から水がとめどなく流れて、睫毛を通って目尻を伝っていく。咳き込む体は変わらなくて、痛くて苦しかった。その背を撫でてくれる手がある。私はこの手を知っている。何度も何度も、私を包んでくれた優しい手。


「う、りゅ、さ……」


「あぁ、良かった。驚いた」


「お、叔父様、わたくしまで、こんな」


 すぐ隣から聞こえてきた声に私は視線を向ける。水希ちゃんのおかっぱ頭も濡れて子どもらしい頬にぺったりと張り付いていた。抗議するように眉を顰めているけれど、湯気でよく見えない。私も水希ちゃんも着物のまま浴槽に入っているらしい。お風呂の中だった。


「なに、風邪をひいたら困るだろう」


 雨竜さんが安堵したような声でそう言った。雨竜さんも浴衣で浴槽に入っている。私たちを抱えて、三人でぎゅうぎゅうに。


「ありがとう水希。すぐに呼んでくれて。それからな、深琴。お前が無事で良かった」


 はぁ、と雨竜さんは息を吐く。ぐっと腕に力がこもって私は水希ちゃんと少し距離を縮めた。


「湯を張り直さんとなぁ」


 何処か楽しそうに笑ってそう言う雨竜さんの声が、耳元で聞こえた。



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