53 五日目の朝
翌朝、雨竜さんの腕の中で私は再び目を覚ました。私の腕もちゃんと雨竜さんを抱きしめたままで、認識すると途端に恥ずかしくなった。でもまだ眠る雨竜さんを今度こそ起こしたくなくて、私は思わず息を呑んだ状態のままゆっくりと息を吐いた。
昨夜は暗かったこともあってか大胆なことをしてしまったなと思い出してはぎゅっと目を閉じた。俯いているから今日は雨竜さんに顔を見られることはないだろうと思う。百面相、と言われた時には驚いたけれど、雨竜さんの前では泣いたり情けない顔を見せたり、みっともないところばかりだ。笑うのは前から苦手だけれど、なるべく表情には出さないようにして生活していたから自分でも意外に思う。
前は、表情に出すとすぐに悪意の標的にされた。施設にいても、学校でも、社会へ出てからも。愛想笑いで取り繕っておけば取り敢えずはその悪意を逸らせることもあった。けれど一度泣いてしまったり不快そうな感情を浮かべてしまったりすれば、相手の認識は変わってしまう。そういう感情を表に出す人間である、と。そうなると後が面倒だった。だから可能な限り愛想笑いで隠した。
雨竜さんはよく笑う人だ。優しく、穏やかに。時には楽しそうに声をあげて。それはとても安心できて、嫌な感じはしなくて、素直に凄いと思う。私もあんな風に笑えたら良いのにと思ってしまう。
欲張りになってしまったらしい、と気づいて私は内心で苦笑した。そうならないようにあげられるものは早くあげてしまいたかったのだけど、雨竜さんに昨夜叱られてしまった。自分を大切にする、って、よく聞くけれど具体的にどうすることが自分を大切にすることなのか判らない。水希ちゃんは大切にしてくれている雨竜さんを信じろと教えてくれた。大切にされている、という感覚を私も自分自身に対して持つことができるようになれば良いのだろうけれど。
雨竜さんが私を大切にしてくれる時、例えばこうして抱きしめてくれる時、私が雨竜さんに同じことをしたいと思って抱きしめたけれど、私が私を抱きしめてもそれはきっと大切にしていることにはならない。食べて良いと伝えることは自分を供物のように扱うことで、大切にしていることにはならなくて。
難しい。
雨竜さんはやり方が判らないなら教えてくれるとも言ってくれたけれど、そんなに甘えてしまって良いのだろうか。本来なら自然と判るものなのだろうか。他の人は何処で学んでくるのだろう。私は鈍臭いからきっと何処かで、学び損ねてしまったのだろう。
こんな私で本当に、雨竜さんは良いんだろうか。神にしてくれるって、どういう意味だろう。私が願い事をしてそれを叶える度、雨竜さんは神様になれるんだろうか。
神様は人のために在ると水希ちゃんは言っていたけれど。
それなら神様の花嫁は、何のために在るのだろう。私は何のために。
ぐるぐる考えていたら障子の外を歩く足音が聞こえた。水希ちゃんだ、と私はハッとする。また起こしに来てくれたのかもしれない。開けるようなことはしないと思うけれど、何だか雨竜さんと抱きしめ合っているのが知られてしまうようで居た堪れない気持ちになった。
「叔父様、奥様、そろそろ朝食の用意ができますからね」
「て、つだい、ますっ」
思わず声をあげていて、歩き出しかけていた水希ちゃんの足音が止まる。そもそも病み上がりの水希ちゃんに朝食の準備をさせているなんてこと自体が間違っていると思うけれど。
「……お願いします」
水希ちゃんから断られなくて、私は目を丸くした。遠ざかっていく水希ちゃんの足音には何も言葉をかけられなかったけれど、少しだけ体を起こした私の動きで目を覚ましたらしい雨竜さんが何だか嬉しそうに笑っているのは視界に入った。
「ご、ごめんなさい、また起こしちゃって」
「良いさ。朝だろう。水希がいなかったら僕はお前といる布団から出られなさそうだからなぁ」
少し眠そうな目をしながら雨竜さんは言う。雨竜さんも起き上がって二人で身支度を整えた。居間へ行けば美味しそうな匂いがしてきていて、水希ちゃんが朝から頑張ってくれたことが判る。私は厨房へ向かってお茶の準備をした。
「おはようございます、奥様」
「お、おはようございますっ、水希ちゃん。もう体調は大丈夫、ですか?」
水希ちゃんは熱があったことなんて夢みたいにしっかりと立っている。はい、と言いながら私を少し振り返って長い睫毛を伏せた。
「ご迷惑をおかけしました」
「そ、そんなこと、ないです。元気になって良かった、です」
安心した私の顔を見て水希ちゃんはまたくるりと背を向けた。私は見えていないと知りつつも確かめるように頷いてお茶の準備を終わらせる。お膳を運んで準備したお茶も運んでと厨房と居間を行き来して、また三人で朝食を囲んだ。
「いただきます」
三人で手を合わせて食事の挨拶をして。何かを話すわけではないけれど、三人で食事をするこの空間を私は受け入れていたようだと初めて気づいた。これで戻った、と思った自分を意外に思う。誰かと食事だなんて、苦痛以外の何ものでもなかったのに。
食後のお茶をず、と飲んで、いつもならすぐに立ち上がって家事に取り掛かる水希ちゃんが食べるのを遅い私を向きながらそういえば、と口を開いた。
「わたくし、昨晩夢を見ましたの。この山を登る夢。あれ、奥様の夢ではありませんこと?」
「え」
私は驚いて固まった。夢を思い出して私も慌てて口を開く。
「わ、私も、昨日、水希ちゃんになった夢を、見ました」
お互いに言葉を失った私たちの空間に、外で降る雨音が微かに聞こえていた。




