52 夜更けのおしゃべり
「……雨竜さん」
「なんだ」
すんすんと鼻を鳴らして涙の落ち着いてきた私は呼びかけた。雨竜さんは相変わらず私の背をとんとんとゆっくり叩いてくれていて、規則正しいそれを頼りに私は平静へと戻ってくる。雨竜さんの深い声も私に落ち着きを戻させてくれた。
「ごめんなさい」
「お前は謝ってばかりだな。今度はどうした」
小さく苦笑して雨竜さんは訊いてくれる。どうしてこの人はこんなに優しくしてくれるのだろう。どうして私の話を聞こうとしてくれるのだろう。私を、知ろうとしてくれるのだろう。
「私、雨竜さんの夜、邪魔してばっかりで」
「なんだそんなことか」
雨竜さんはそう言うと私を更にぐっと抱き寄せた。温かい雨竜さんの腕の中。肩におでこを押し付けて、私は優しさに包まれる。
「言っただろう。お前をひとりで泣かせたくないんだ」
優しい声で雨竜さんは言ってくれる。温かくて、凝り固まっていたものが解れていく感覚がする。凍りついていたものが溶けていくような、流れ出していってしまいそうな。どろりとしたそれは、雪解けにも似ていて。汚くて、恥ずかしい。できることなら見られたくない。知られたくない。でも土の匂いのするこの神様なら、許してくれそうな気がした。
「こんな、甘えて、良いんでしょうか」
「良いさ。お前も僕を甘やかしてくれただろう」
「雨竜さんが優しいから、お返し、したかったんです。でもまた、もらってしまいました」
「それならまた返してくれれば良い」
簡単なことのように雨竜さんは言う。きっと簡単なことなのだろう。やり方さえ解ってしまえば、方法さえ知ってしまえば。そうして誰かと信頼して、関係性を築いていくのだ。私にはできなかっただけで。
「……もらっているのは僕の方だ、深琴。お前がいてくれれば本当に、僕は充分なんだよ」
胸が痛くなるような声だった。いるだけで良いなんて言ってもらえたことはなくて、私には過ぎるくらいの幸福で。そしてもしこれが雨竜さんも欲しているものなら、私も同じものをあげられたら良いと思う。いてくれるだけで良い。言葉にするならきっとできる。でも其処に心が、想いが伴わないならそれは空虚に響くだけだろうから、私にはまだ、言えない。
「どう、して」
「ん?」
「どうして、雨竜さんは、私に優しくしてくれるんですか……?」
何もできない私に、いるだけで良いなんて言ってくれるのだろう。
「私、生きてる時には、誰にも、望んでもらえなかった。取り柄も、なくて。役にも、立てなくて。ただ邪魔なだけで。誰かの場所に無駄に、いて。優しくしてもらえたと思ったのも、最後には要らないって、放されてたって知って。
私が、人間だったからですか? 神様として在るために、必要だから……? それなら私、凄い、偶然。幸せ者です。最期の最期に、そんな大役を仰せつかって。でも、全然足りなくて、ごめんなさい」
こんなに優しくしてもらっているのに、嬉しいのに、何も返せない。早く雨竜さんの欲しいものをあげられれば良いのに。
「此処でも、要らないって言われるんじゃないかって、思ってて。それ、水希ちゃんに、怒られました。でも何もないのに、置いてもらえるなんて、そんなこと、ないって解ってるから。私にできることなんて、最後は食べられることなら、雨竜さん、遠慮しないでくださいね。私があげられるもの、そんなに、ないから」
「……深琴」
雨竜さんが体を起こす。私は布団に仰向けに転がされて、雨竜さんの手が顔の横に置かれた感覚がした。布団をかぶった雨竜さんが体を起こしただけで熱が離れるから少し寒い。暗くてよく見えないけど私は雨竜さんがいるだろう場所をぼんやり見上げた。
「確かに僕はこの龍が淵の主で、お前は水神に身を捧げた。お前の身をどうしようと、僕にはその権利がある。だがな」
雨竜さんの片手が離れて私の頬に触れ、顎を通って首筋を伝った。体の中心を通っていくように雨竜さんの細い指がなぞりながら下がっていく。そんなところ触られたことがないから私はひっと息を呑んだ。吐けない。雨竜さんの指が下がっていく度に息を呑む。段々と背が反って腰が浮いた。胸が苦しい。
「まるで供物のように自分を扱うな。もらうべき時が来たなら尋ねる。深琴、お前を喰わせてくれと頼む。此処を明け渡せと──」
雨竜さんの掌が私の下腹部を撫でた。温かい手がぐっと軽く押してきて、私はそれでようやく息を少し吐いた。
「──望むこともあるかもしれん。僕は蛇だからな」
だがそれとこれとは話が別だ、と雨竜さんは続ける。私は酸欠で意識が飛びそうだった。
「僕にどれほどの権利があろうと、お前の身はお前のものだ。僕を甘やかすのも良いが、自分を大切にすることも知ると良い。方法が判らないなら教えてやるとも。
僕はな、深琴。お前に感謝しているんだよ」
「か、んしゃ……?」
そう、と肯定して雨竜さんはまた私を抱きしめてくれる。再び布団に二人で包まって、優しい腕に包まれて。苦しかった息も段々と吸って、吐いて、が上手くできるようになってきた。
「お前は僕を神にしてくれる。それだけで僕にとっては充分過ぎることなんだ。何かしてやりたいと思うのに何もできないと思うのは、僕の方だ」
そんな、と私はかぶりを振る。
「こんなに、優しくしてくれるのに、ですか」
「お前は欲がないな」
欲なら、私にだってある。それもとんでもなく大きくて深くて、強いものだ。雨竜さんが聞いたら呆れて絶句するような、そんな。でもそんなの、知られたくないから。
「雨竜さんこそ、欲、ないじゃないですか」
そう返せば雨竜さんは笑った。
「そうさなぁ。お前が来てくれたから僕の欲は満足してしまったかもしれんな」
え、と訊き返そうとしたら、さぁと促された。ぐっと抱えられてすぅと雨竜さんは息を吸った。
「夜更しはほどほどにして眠らないか。それとも目が冴えてしまったか?」
苦笑するように雨竜さんが言う。私はいつの間にか夢中になっていたことに気づいて自分で自分に苦笑した。
「ごめんなさい。寝ます」
今度は私も雨竜さんに腕を回して抱きしめた。雨竜さんが嬉しそうに笑う。
二回目のおやすみを言って、私はまた眠りに落ちていった。