49 抱きしめたもの
雨竜さんは気を遣っているのか腕を広げたまま動かない。私は抱きついたは良いものの、次にどうして良いか判らず緊張していた。雨竜さんは優しいからこれだけでもありがとうと言ってくれるけれど、こんなことで良いのだろうか。これだけで、本当に。
「あ、あの」
「なんだ」
優しい声が降ってくる。顔を上げれば雨竜さんの優しい目が見下ろしてきた。
「う、雨竜さん、本当にこれで、喜んで、くれてますか……?」
「嬉しいさ。お前から伸ばしてもらえた手なら、何だって」
言われて初めて私はそういえばと気づく。毎回、雨竜さんが良いかと確認してくれて、そうして包んでもらうのは私の方だ。包まれて温かくて嬉しくて、私は沢山もらったけれど雨竜さんは。与えるばかりでもらったことなんて全然ないのではないか。
「もしかして」
私は思ったことを知らず口にしていた。
「雨竜さん、が、してほしいこと、って」
雨竜さんの表情が動く。少し目が細められて、私が何を言うのか先を待っているように見えた。その表情を見て私は自分が声に出していたことに気付いたけれど、今更やめるなんてできなくてそのまま自信もないまま続けた。
「私に、してくれたこと、ですか……?」
きょとんとした表情が返ってきて、違った、と答えを知る。恥ずかしくなって、間違えていたことを口にしたことがどうしようもなくて、私はあわあわと口をぱくぱくさせて雨竜さんの顔から視線を逸らす。
「ご、ごめんなさい、自意識過剰なこと、言いました。ごめんなさい」
「深琴」
思わず離れようとした私を追って雨竜さんの腕が伸びた。雨竜さんの大きくて温かな腕の中は包まれているみたいで安心する。でもぎゅっとされると一歩も動けなくなってしまって、私はどうして良いか判らない。咄嗟に離してしまった手はまだ雨竜さんの胴の横を通っていて抜け出せていない。上げ続けているとつらいけど、だからといって下げるにも雨竜さんにぶつかってしまう。
「深琴、良いから。良いから、教えて。お前の考えていることを僕に」
雨竜さんが優しい声で私に言う。雨竜さんの肩口に私のおでこがぶつかっているから顔は見えていないだろう。肩を抱くように回された腕が動いて頭を撫でてくれた。頭を撫でられたことなんて全然ない。最初は驚いたけれど雨竜さんの手も優しいから、宥めるように撫でられるそれで私は一瞬で慌てた内心の焦りが落ち着いていくのを感じた。
「僕はお前とこうして触れ合えるだけでも結構満足しているんだ。お前は温くて柔らかい。だが緊張しているようだから嫌なら無理強いするつもりはない」
雨竜さんが静かに話してくれた。ゆったりとした話し方。深い声。
「あぁでも、離れようとしたお前をこうして引き止めているのは無理強いだろうか」
雨竜さんの声が少し震えた気がした。
「深琴、教えて。お前はどう思う」
雨竜さんも緊張しているのだろうか。雨竜さんでも緊張することなんてあるのだろうか。判らないことがあるのだろうか。
優しい人は最初から優しいんじゃなくて、優しくすることを知っている人なのかもしれないと思った。きっと優しくされたことがある人で、優しく在りたいと思った人なのかもしれない。それはきっと、優しくされたい人だからだ。
「あ、あの、嫌じゃ、ないんです。ごめんなさい。ただその、恥ずかしくて、自分が、情けなくて。私みたいのが、雨竜さんに触って良いなんて、思えなくて。う、雨竜さんこそ、嫌じゃ、ないですか」
「どうして」
すぐに疑問が返ってきて私はしどろもどろになってしまった。雨竜さんは小さく笑う。
「言ったはずだぞ。僕はお前とこうして触れ合えるだけで結構満足していると。嫌なことなどあるものか。お前こそ、僕の本来の姿が何か知って怖くはないか。ただ本来の姿ではお前を絞め上げることしかできんからな。腕も脚もある人の子の姿でいるつもりはあるが」
「わ、私だって、言いました。雨竜さんは雨竜さんです。どんな姿、だって、変わらないです」
「……言うじゃないか」
雨竜さんは楽しげな色を声に滲ませた。生意気だっただろうかと思ったけどでも本心で思っていることだから翻すなんてできなくて私は黙った。それなら、と雨竜さんは息を零すように続ける。
「このまま教えて。どうして深琴、お前にしたことが僕のしてほしいことだと?」
私は言葉を探して、それでも良い表現が他に思いつかなくてそのまま言うことにした。上げたままでつらい手をそっと、雨竜さんの背中に戻す。微かに雨竜さんが驚いたように体を震わせた。
「私、雨竜さんに抱きしめてもらうと、あったかくて、安心、します。嬉しくて、幸せで。今までもらったことがないから、こんなに素敵なもの、もらって良いのかなって不安にもなります。でもそんなに素敵なものなら、雨竜さんだって、欲しいんじゃないかって。でも私じゃそれを、あげられてないんじゃないかって」
腕を回して初めて解ることがある。雨竜さんの体格とか、胴の細さとか、体の薄さとか、柔らかさとか、そういったもの。雨竜さんも考えて、感じて、寒さに震えて。私では精々が湯たんぽや抱き枕にしかならなくても。それでも。
「誰かを抱きしめたことなんて、初めてだから、初めて知りました。私、こうして、雨竜さんの命そのものを抱きしめているんですね。雨竜さんも、私の命そのものをきっと抱きしめてくれてるから、嬉しくて、温かい」
その腕に優しさを、慈しみを感じるから、幸せなのだと思う。私ばかりが受け取るのでは勿体ないと思うから。こんなに素敵なのだと、雨竜さんにも感じてもらえたら。それが私では力不足だとしても。
「だから、少しでもそれが感じられるように、抱きしめてくれるのかなって思って。求めていたのに私では充分にあげられなくて、それで」
ぐっと腕に力を込められて胸が押しつけられたから息ができなくて言葉が途切れた。話している途中なのに雨竜さんがそうするなんて意外で、私は驚いて目を丸くする。
「う、りゅ……さん……?」
呼びかけてみれば雨竜さんが小さく、本当に小さく、はぁ、と息を吐く音が聞こえた。
「──このままお前を食べてしまえればなぁ」
聞こえてきた言葉に私はまた目を白黒させたのだった。