40 四日目の朝
雨音を聞いた気がして私は目を開けた。静かな邸の中で時折聞こえてくる空気の音とは違う、水面を打つ雨粒の音。温かさに微睡みを覚えながら、薄暗い部屋の中が見えるまで目が慣れるのを待った。
「……」
目の前で上下するそれに気づいて私は息を呑む。夢ではない。初めてでもない。けれどだからといって慣れるものでもない。
雨竜さんが私を抱きすくめたまま眠っている。一昨日の朝もそうだったけれど、雨竜さんは随分と寒がりのようだから同じ布団に熱源があれば寄ってくるのは彼にとっては普通のことなのかもしれない。昨晩も私を湯たんぽのように感じていそうだったし、嫌な感覚はない。思わず固まってしまったけれど雨竜さんがひどいことをしない人だというのはもう解っている。
すうすうと穏やかな寝息を立てる雨竜さんは綺麗だ。いつも優しく笑ってくれる雨竜さんの寝顔は無防備で、その寝顔を見ていると優しさというのは意識して向けるものなんだと改めて感じた。優しい人は最初から優しくあるわけではなくて、きっと、優しくできる人、なんだろう。
今まで優しさを向けてもらえたことなんてなかった。全くなかったわけではないのだろうけど、最後にはいつも怒らせたり呆れさせたりしてしまうのが私だから、優しくしてもらう価値のない人間なのだと思う。雨竜さんも最後には同様に離れていくのかもしれない。仕方がないことなのだろう。でも、何だか、それを考えると憂鬱だ。
こんなに、あったかいのに。
こんな風に抱きしめてもらったことなんてない。私はいつも要らなくて、捨てられる方で、排除される方で、選ばれない方だった。雨竜さんにも要らないと捨てられる日がいつか来るとして、この温かさを思い出す時があるのだろうか。向けられた優しさを思い出して、そして、どうするのだろう。ひとりで進んでいけるのか、それとも余計につらくなるのか。
パンをもらった時はどうだっただろう。あのパンでその後も生きていけた私は、けれど次のパンを見つけられなくて行き倒れてしまった。どうだったっけ。パンに感謝して、それとも恨んだだろうか。あの時に終わっておけばと思ったのだったか。判らない。
いずれ失くすものならば。そしてもし、つらくなるものならば。最初から知らない方が良かったなんて思うだろうか。
少しだけ。少しだけなら、望んでも許されるかな。此処にいたいと願った一昨日の晩のように。もう少し雨竜さんと一緒にいたいと願っても、良いかな。
かみさま、と心の中で思う。水神様は目の前にいるけれど、心の中で呼びかける神様は果たして誰になるのだろう。果たして誰が、聞いてくれるのだろう。
ほんの少しだけ、一昨日の雨竜さんの真似をして近づいてみた。といっても本当に少しだけれど。近づいたなんて言えないような、微かな身動ぎ程度のものだけれど、精一杯に勇気を振り絞ってみて。雨竜さんの寝息は変わらない。起こしはしなかったようだと思って安心する。
雨竜さんの腕の中にいるのは変わらなくて、脱力した腕が意外に重たいなんて初めて知って、でもその重さが少し心地良くて、何より温かくて、部屋の薄暗さも相俟って私はまた睡魔に襲われていた。二度寝なんてしたら怒られないかな。でも今が何時か判らないし、陽の光も多くは入らない。瞼が少しずつ閉じていく。雨竜さんの寝息と、空気の音、微かな雨音に意識が溶けていくようだった。
「……」
雨竜さんの腕が動いた気がした。もうほとんど夢現を彷徨っていて夢か現実か判らない。ぐっと抱き寄せられたような気がする。温かい。湿った土の匂いがして、少しだけ春を思い出す。それともこれは夕立の後の雨の匂い。カビ臭かったあの部屋とは違う。大勢いるのに変わらずひとりぼっちだった施設とは違う。包んでくれて、温かくて。
幸せを形にしたらきっと、こんな風なんだと思う。誰かがいてくれて、温かくて、包んでもらって、安心できて。私にはなかったもの。私には持てなかったもの。手に入らないと諦めていたもの。求めもできなかったもの。
沢山与えてくれる。惜しみなく与えてくれる。あなたの好きな雨そのもの。降り注いで慈しんでくれる。私を欲張りにしていく。
「……深琴」
深い、優しい声。呼びかけられて意識が現実に浮上した。
「どうした、また泣いているのか。嫌な夢でも見たか?」
心配そうに見下ろしてくる優しい目を見上げて、私は小さく首を振って否定した。
「あった、かく、て」
「うん、確かに今日は冷え込んでると思うが。温かいと泣くのか」
人間とは温かいと泣くものである、と間違ったことを覚えそうで私はそれも首を振って否定した。雨竜さんは心配そうに首を傾げる。薄暗がりの中で綺麗な髪が流れる音が聞こえてきそうだった。
「あったかい、の、嬉しいです。嬉しくても、涙って、出るんです」
「そうか。……そうか」
雨竜さんは納得したように二回呟くと布団を引っ張り上げる。そうして私をぐっと抱きしめると頭からすっぽりと屈むようにして布団に潜り込んだ。同時に脚が絡められて身を縮めるようにして膝が少し曲がる。覆い被さられている重さが布団か雨竜さんか判らない。少し息苦しい。
薄暗がりからほとんど真っ暗な状態になって私は驚いて身を固くするけれど、雨竜さんは楽しそうにくつくつと笑っていた。触れている腕が笑うように震えているのが判る。
「う、うりゅ、さ」
慌てる私の髪を撫でるように雨竜さんの手が動いた。気づかなかったけれど雨竜さんの腕に頭をのせて寝ていたらしい。その腕を動かされると前のめりになって雨竜さんの肩に額をぶつけた。そのままぎゅうと力を込めて抱きすくめられると息が詰まった。
「どうだ。もっと温かいだろう。僕も温い」
雨竜さんの声がして私は目をぱちくりと瞬いた。何が起きているかよく判らない。
「温いのは嬉しいな。泣いて良いぞ、深琴。温ければ嫌な夢も見るまいよ。嬉しくて出る涙も全て僕が受け止めよう。ひとりで泣かなくて良い」
「……ふふ」
「何故笑うんだ」
泣くんじゃなかったのかとばかりの声が少し不満そうに聞こえたけれどそれは何故か不安に感じなかった。嫌われたんじゃないと思えた。雨竜さんのこの行動は私のためにしてくれたものだと解るから。
「雨竜さん、その、ありがとう、ございます」
思い上がりだと、今までなら思っていただろうけれど。此処には二人しかいなくて、私の言ったことで雨竜さんがこうしてくれるならそれは勘違いではないと思える。
「あぁ、いや、良いさ。お前が笑うなら、それで」
穏やかな雨竜さんの声も、少し笑った気がした。