36 お手伝い
「体を返したのであれば、お食事は更に大切です。しっかりと命を頂いてご自身の存在を繋ぎ止めておいてくださいね」
水希ちゃんに言われたことに私は頷いた。今日は配膳を手伝わせてくれて、水希ちゃんはそう言った。
「この常世は現世とも幽世とも繋がってはいますが、何処とも交わることはありません。此処に留まるには信仰が必要ですの。神であること、精霊であること、何でも構いません。人とは異なる存在であり、確かに在ると信じられること。わたくしたちは元が動物。その上で命を頂くことで存在を繋ぎ止められます」
叔父様は何も言わないのでしょうね、と水希ちゃんは息を吐いて教えてくれた。私には少し難しい内容だけれど、食事はちゃんと摂るようにということは理解できたと思う。世界の在り方というのは私にはよく判らないし別の世に行き来することもないだろう。
人とは異なる存在というなら私は差し詰め幽霊といった存在なのだろうと思う。私の体を見つけてくれた人たちはしばらく覚えていてくれるだろうか。私に身寄りがひとりもいないことを知ったらどうなるだろう。施設に連絡は行くのだろうか。十年も前に出て行った子どものことを覚えている職員など残っているだろうか。
誰も、私を覚えていなくなったら。そうしたら私は此処にいられなくなるのだろうか。雨竜さんはいつまで此処にいられるのだろう。あの人をひとりにしないでと言われる理由が少し、分かったような気がしたのに。
「あなたは水神の花嫁。叔父様がいる限りあなたも存在が途絶えることはありません。それは祝言をあげればもっと確実になるでしょう。ただ、山神が許すかどうか」
「は、反対、なんですか?」
急なことだったから反対されたっておかしくないと思う。とても大切に想われている人だし、その相手が私のような者では難色を示されたって当然だ。久々に来た人間が私だったというだけで、それがよりによって私だったから。
「そ、そういえば、挨拶、とか、何も」
「挨拶?」
水希ちゃんが怪訝そうに私を見る。私はちょっと自信を失った。苦手だけれど新しい場所に腰を落ち着けることにしたなら挨拶くらいしなくてはならないものではないのだろうか。
「あなたは水神の花嫁なのですよ。水神のものが他所の神へ挨拶、ですか?」
「え、う、す、すみません」
咄嗟に謝った私に怒ってるんじゃありませんの、と水希ちゃんは言う。ただ意味が解らないと。
他の神様との交流はないと雨竜さんも言っていたし、ご近所付き合いみたいなものはないのだろうと私も思う。晴嵐さんは訪れるけれど頻繁というわけでもなさそうだ。呼び出されて雨竜さんが出かけたのも、私がいなければ起こらなかったことだろうから。
「ど、どうして、山神様は、反対を?」
「叔父様のことが気に入らないんですの。この宮を空にするわけにはいかないと解ってはいるのでしょう。でも、気に入らないんです」
「け、んか、とか……?」
喧嘩、と水希ちゃんは繰り返してふふっと笑った。水希ちゃんがそんな風に笑うところを初めて見たから私は驚いてしまう。
「そんな単純なものであれば良かったのでしょうけど」
彼女が少しばかり遠い目をしたような気がしたけれど、あまりまじまじと見てはいけない気がした。何かいざこざがあったのかもしれないと思う。でも私はそれには入れない。事情をよく知らないし、私が踏み込んで良い問題かも判らない。
「あなたが行っても山神は機嫌を損ねるだけでしょうね。叔父様の機嫌も良くはなくなるでしょう。それでもあなたが行きたいと仰るなら、叔父様に話してみると良いかと思いますが」
「あ、や、やめときます……」
「それが賢明かと。さて、おしゃべりが過ぎましたね。そろそろ叔父様がいらっしゃる時間です。配膳をお願いします」
「は、はい!」
私は知らず止まっていた手を慌てて動かして準備を終わらせる。よいしょ、と膳を持って、それから気づいて水希ちゃんを向いた。水希ちゃんは私に背を向けて使った道具を洗っている。今度は洗い物を手伝わせてもらったり、ゆくゆくは任せてもらったりできるようになれたら良いなぁとその背を見て思った。
「あ、あの、水希ちゃん」
「なんです」
まだいたのかと言わんばかりの様子だったけれど、私は呼びかけた手前なんでもないですなんて引き下がれなくて息を吸った。
「お、教えてくれて、ありがとうございますっ。色んなこと、私、あんまり頭も良くなくて、その、覚えるのにも、時間が、かかる、けど」
水希ちゃんは雨竜さんと同じように待ってくれる。私の鈍臭くてトロ臭い話も遮ったりしない。私みたいに言い淀んだりしないから、その迷いのなさが少し怖く見えることもあるけれど水希ちゃんも優しい人だと私は感じるのだ。
「私、此処で、頑張ってみたい、から、また色々教えてください」
水希ちゃんは振り返らない。何をバカなことをといった様子で小さく息を吐き、早く持っていってくださいと私をあしらう。すみません、と小さく謝った私は急いで振り返ると居間へ向かった。
「時々、ですからね」
小さな小さな水希ちゃんの声が追いかけてきた気がしたけれど立ち止まれなくて、私はそう言ってくれていたら良いのにという自分の願望を聞いたのかもしれないと思って苦笑したのだった。