35 約束
「雨竜さん……?」
私はそっと呼びかける。雨竜さんの微かな震えが何からくるか判らなくて、自分に何ができるとも思えなくて、けれどもただじっとしているのも落ち着かなくて、何かしてほしいことはないかと思って呼びかけた。雨竜さんは小さく、すまない、と零す。何度目とも知れぬそれを聞いて私は困ってしまう。
「雨竜さんが謝ることなんて、何も」
「あるさ。本当はこうすることさえ赦されない」
え、と思って私は言葉を失った。何だかそれは聞きたくない言葉な気がする。胸がざわついて、けれどそれを掴むこともできず、私は雨竜さんが話すのを待った。でも雨竜さんはそれ以上話すことはなくて、ただ私を抱きしめていた。
「……お前の体を人の子に返してきた」
「はい」
雨竜さんは口を開く。それは別の話題だと直感したものの、指摘することなんかできなくて私は頷いた。雨竜さんが望むなら違う話題に移ろう。話したくないことを話すのがどれだけ大変か、私は知っているから。
「外はまだ寒くてな。寒さには弱い身だ。どうにも堪える。お前は温い」
すり、と頬を更に寄せられて何だか気恥ずかしい思いも覚えるけれど、温かさを求めるそれは純粋なもののような気がして私はそのまま受け入れた。もう拒絶に見えることはしたくない、という思いもあった。雨竜さんの傷ついた顔は見たくない。
「雨竜さんは、寒がりさん、なんですね」
「そういう習性でな」
習性、と私は心の中で繰り返す。昨日の朝もそう言っていたけれど、あまり馴染みのない言葉だ。日常会話でそんな単語が飛び出すこと自体が稀な気がする。
「お前は寒くないか、深琴。この邸は水の底だ、冷えるだろう」
「私、は、平気です。梢枝さんの見立ててくれたお着物、しっかりしてるし、そんなに寒くなくて」
「そうか。それなら良い」
あ、でも、と私は思い出して声をあげる。
「雨竜さんの、羽織、あったかかった、です。お返しできてなくて……後でお渡ししますね」
いや、良い、と雨竜さんはやんわり言う。後頭部をさらりと優しく撫でられて私は何に反応すれば良いか分からなくて固まった。
「僕はそういう羽織ものは沢山持っているし、深琴が持っていてくれないか。冷えるようなら袖を通せば良い。柄が気に入らないなら他のを持って行っても良いぞ」
「え、う、あの、そんな、わけには」
「勿論、深琴、お前が嫌なら無理強いはしない」
「……嫌じゃ、ない、です」
上手いこと言い包められた気がしながら私は答える。雨竜さんは声に出さず小さく笑った。頬を寄せていればそれくらいは私でも判る。
でもそれで良いとも思った。笑ってくれれば安心した。ざわざわするようなことを聞かなくて済むし、感じなくても済む。
「お前に言わなくてはならないことがある」
頬を寄せたまま雨竜さんが言う。はい、と返してから深呼吸をする私を待ってくれて、雨竜さんが口を開いた。
「お前は忘れていることがあると言ったな。僕も話していないことがある。だがこれは、そうさな、お前が思い出すか願いが叶った時に話そう。だから思い出した時は教えてくれ」
「……はい」
神様相手に安易な約束なんて本当はしない方が良いんだろう。そう思いながらも私は頷いた。雨竜さんが話してくれることがあるなら、私はそれをきっと聞かなくてはならないのだろうから。
「手習いをしていたのか」
雨竜さんはまた違う話題に移った。私が広げたままの習字道具や途中の半紙を見てそう言ったのだろう。私はこれもはいと肯定する。勤勉家だなと後頭部をまた撫でられて何だかくすぐったい。
「お前が僕の代わりに物語を語り聞かせてくれる日が来るのが楽しみだ」
「そ、んな、良いものでは」
「何を言う。深琴が話してくれるだけで僕は結構嬉しいんだぞ」
体が瞬間的に熱くなった気がした。触れている頬も熱くなっていないだろうか。雨竜さんに、バレてしまっていないだろうか。
「私、お話、あんまり、得意じゃなくて」
「……これも無理強いはしないぞ」
「はい。でも、あの、雨竜さんが、喜んでくださる、なら……頑張って、みたい、です」
「──っ」
「う、うりゅ、さ……っ」
ぐっと込められた力に私は驚いて声をあげた。厚着の着物の胸が押されて息が詰まる。後頭部に触れる雨竜さんの指先にまで込められた力はそれでも優しくて痛くはない。雨竜さんも息が詰まっていたのか、はぁ、と耳元で吐き出す息の音がした。それとも何か呆れられるようなことを言ってしまったのかもしれない。
「深琴」
雨竜さんの深い声。今日は何だかつらそうに聞こえる声。それなのに優しさを忘れないこの人は凄いと私は思った。慈しむように頭を撫でてくれる。
「お前は凄いな。充分に温まらせてもらった。ありがとう」
そう言って雨竜さんは私から離れると穏やかに笑んで手習いの邪魔をして悪かったと書庫を出て行った。私は、いえ、とか、そんな、とか上手く言えない言葉を口の中でもごもご言いながらその背が廊下に出て行くのを見送った。




