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33 現との離別


「おはようございます。あら」


 朝食の準備をしている水希ちゃんが居間に現れた私たちを見て首を傾げた。私は自分で結んだ帯の最終調整を結局雨竜さんにお願いし意気消沈していたが、雨竜さんはよく此処まで上達したと褒めてくれた。水希ちゃんが何かに気づいたことに気付いた様子の雨竜さんがおはようと水希ちゃんに声をかける。


「あぁ、“返す”ことにする。それが深琴の願いだ」


 そうですか、と水希ちゃんは頷いた。


「ではまずは選ばれたのですね。此処に留まることを」


 真っ直ぐに視線を向けられて私は頷いた。水希ちゃんの目にはあまり感情が浮かばない。私が此処に残ることを選んだと知ってどう思ったのかよく判らない。


「ついでに叔父様の力でも見せつけていらっしゃれば多少の信仰が得られるのではありませんか。ほどほどに脅してくればよろしいかと」


 水希ちゃんは私から目を逸らしながら言う。それは山神との掟でなぁ、と雨竜さんは困ったように笑った。


「山に人が入ること自体、十数年ぶりなんですよ。この機会を逃す手はないのでは。山の上の小言など、叔父様には響かないものでしょう?」


「お前は悪いことを言うなぁ」


 二人のやり取りを聞きながら私は引っかかった単語を手繰り寄せる。水希ちゃんは一昨日にもそう言っていなかったか。この山に人が入るのは十数年ぶり。この十数年、人は訪れていなかったことになる。私が来たとするならその十数年よりも前、ということになる。十年前でも私は十八歳。高校生くらいだ。自動車がなければ交通の便が悪いこの山に、私ひとりで来られたとは思えない。かといって学校行事で来るような山ではないし、ハイキングにも向かない。それなら私は、一体、誰と来たと言うのだろう。


「深琴」


 雨竜さんが私を呼ぶ。ハッと顔を上げた私は雨竜さんの優しい眼差しを見て考えていたことを意識の端に追いやった。


「朝餉にしよう。今朝も美味そうだぞ」


「は、はい」


 此処へ来て三回目の朝食を囲み、私は朝食に集中する。二人とも食べるのが早いわけではないけれど、私は特別遅いから頑張らないといつまでも後片付けができない。考えごとをしていたら一層遅れてしまう。二人が最後のお茶を飲み終わる頃、私はようやく食べ終えた。水希ちゃんが片付け初めて、私は慌てて温くなったお茶を飲み干す。


「それじゃ、出かけてくる。今日は晴嵐が来ても入れるんじゃないぞ」


 雨竜さんが湯呑みを置いて立ち上がった。お見送りのために玄関へ向かう私に気づいた雨竜さんが、少し困惑したような表情を見せてそれでも隠しきれなかったように嬉しそうに笑う。


「お前の体を人の子の手に戻して本当に良いのか? もう戻りたいと言っても、戻れんぞ」


 最後の確認とばかりに雨竜さんは私に訊いてくれる。それをしに行くのだ、と私は気づいて大きく一度、頷いた。


「私が帰りたい場所は、もう人の世には、ないんです」


 人の世に帰りたいと思える人はどんな人だろう。自分で命を絶っておいて、やり直したい、なんて。事故でうっかり滝壺に身を投げてしまった人とか、人の世に良い思い出が残っている人なら、そう思えるのだろうか。


 誰にも望まれず、誰にも帰りを待ってもらえない私が帰りたい場所などあるはずもない。色々な後片付けを全部他の人に任せることになるのは心苦しいけれど、それを私は最初に選んだ。全て手放してしまいたいと、望んだ。


「ご迷惑、おかけします。よろしくお願いします」


 深々と下げた私の頭を優しくひと撫でし、雨竜さんは玄関の引き戸を開けて外へ出て行った。私の選択はとりあえず嫌がられるものではなかったようだ、と思って安心する。


 人の死体の処理など、気持ちの良いものではない。魚の餌にしないのは私を探して人が入っているからだろう。晴嵐さんが教えてくれたように、警察なり地元の人なりが私が滑落したのではと探しているかもしれない。戻るつもりのない私をいつまでも探させるくらいなら、多少見た目が悪くなっていても体が見つかれば其処で捜索は打ち切られる。遺書でも書いておけば良かったなと思った。そうすれば事件性はなくて、事故でもなくて、自分で選んだことだと判断されてそれ以上の手を煩わせずに済んだのに。


 さようなら、私の体。苦しい思いをしながら二十八年も頑張ってくれた器。生きるのをやめてごめんね。検死が終われば火葬されて灰になる体。骨も残さず、この世にいた痕跡さえ残さずに消えてしまってほしい。骨壷なんて残さなくて良いから。その場所さえ勿体無い。他の誰かのために空けておいてほしい。


 だけど頑張ってくれた体。ありがとう。私を此処まで連れてきてくれて。体がなくても私が此処にいるのは生身ではなくて、意識とか、魂とか、そういう存在になってしまっているんだろう。不安定だと水希ちゃんも言っていた。それはきっと嘘ではない。物質としての私を失ったら、より一層不安定になるだろう。消えたいと思ったら本当に消えてしまうかも。


 どうか、思い出すまでは。まだ此処に、いさせて。


 玄関で頭を下げたまま私は静かに、胸の痛みに耐えた。



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