31 夢現の只中で
夜、私は昨日と同じ夢を見た。
「深琴」
雨竜さんはまた優しい声で私を起こしてくれる。私は雨竜さんの顔があるだろう場所をじっと見上げた。今日の夢は昨日とまるで同じだ。昨日は忘れてしまったけれど、今日は覚えている。まるで思い出せと記憶の底からせっつかれているようで。
「どうした、深琴」
雨竜さんの顔はよく見えない。少し躊躇ったような間があったけれど、温かい指が私の目元を今日も拭ってくれる。やっぱり今朝のあれは雨竜さんにとって拒絶に見えたんだろうと思う。そうじゃない。雨竜さんが嫌だったわけじゃない。
「私、大切なことを、忘れていますね」
「……」
雨竜さんは答えなかった。何かを言うとしたら同じように、忘れることを悪く思うなと言ってくれるのだろう。けれどあの悲しそうな、寂しそうな顔から、そう望んでいるわけじゃないことは想像がつく。私が忘れたかったことだとしてもこの人が思い出してほしいと願うなら、私だって。
「晴嵐さんに、聞いたんです。言えない、って言ってましたけど、でも、私、此処に来たことが、あるんですよね」
だから最期を決めた時に此処に来たんですよね。そう続ければ雨竜さんの触れたままだった指が少し震えた気がした。
「雨竜さんが、知りたかった答え、其処にきっとあるんですよね。私、すぐ、忘れてしまうみたいだから……思い出すのに時間が、かかるかも、しれないけど。それでも、良い、ですか……?」
雨竜さんはまた私の目尻を拭う。私は雨竜さんのその手に頬を寄せるように身動ぎした。温かい雨竜さんの手。温かいものに近づきたい感覚は解る気がした。
「深琴、お前は、帰りたいとは、思わない?」
掠れた雨竜さんの声が確かめるように言葉をひとつひとつ区切りながら問うてくる。
「何処にですか? 私が帰る場所、なんて、もう、何処にも。帰りたいところも、ないのに」
私は困って笑った。最初から最後まで望まれなかった私。要らないと言われ続けてきた私。それを拾ってくれたのが、雨竜さんなのに。
「行きたいところも、帰りたいところも、ないんです。自分がどうしたいか判らなくて、周りが求めてくれるまま、それに応えることが唯一、此処にいて良いって、条件だと思いながらやってきました。でも、私、我儘を言って良いなら、帰りたくはない、です。雨竜さんが、良いって言ってくれるなら、此処に、置かせてください」
したいことも判らない。でも帰りたくはない。誰にも求められない人の世に帰るくらいなら、食べられても良いから優しくしてくれる雨竜さんがいる此処にいたい。もしもその優しさが嘘だと言うなら、最後の最後まで吐き続けてほしいと更に願って。
「そう簡単に僕に願って良いのか? 覆せなくなるぞ」
「良いんです。これは、二十八年間も考えてきたことです。何処かに行きたい、此処にいたくない、助けてって」
「……」
助けて。ずっとそう訴えていた。でも充分な助けはなくて、最低限はしたからあとは頑張れと放り出されて。最低限だなんて、今日を生きるだけに必要な分だけだった。何処かへ行けるのは空想の中だけで、いるしかない場所にそれでも居場所はなくて、最後には後が閊えるからと追い出されて。
他の人には充分な助けだったのかもしれない。けれど鈍臭くて何をするにも人より遅くて時間のかかる私には、足りなかった。ただそれだけだったのだとしても。
狭い足場で爪先立ちをしながら、口元まで届く水の上に何とか鼻だけを出して呼吸するのが精一杯のような日々に、助けを求める余裕もなかった。一瞬跳んで、水から出た口で助けてと叫んだとしてそれを聞いてくれる人が周りにいるかも判らない。跳んだとして狭い足場に再び足がつく可能性があるかも判らない。濁った水の中では目を開けて足場がある場所を確認することさえ、できはしないのに。
そうすることに疲れて生きるのをやめた。頑張ったところで息をするのが楽にはならなくて、それならこの水の中に沈んでしまえばいっそその方が楽なんじゃないかと思った。最期に勇気を出して力の限り跳んだ。そうして水に落ちる間際に呟いた言葉を聞き届けてくれた存在があった。私の声を、聞いてくれた存在があった。
「雨竜さんだけが、私の声を、聞いてくれる。私がどうか、って、気にかけてくれる」
此処へ来てそうしてもらえることのくすぐったさを知った。私に限らず周りをそう扱う雨竜さんだから周りの人にも大切にされて、その雨竜さんが気にかけてくれるから私のこともみんな気にかけてくれるのだろうと思う。
「我儘ばかりで、ごめんなさい。お願いします、雨竜さん」
「──あぁ、その願い、聞き届けた」
雨竜さんの優しくて深い声が波紋のように広がった気がした。すっと撫でてくれた指先はずっと温かくて、私は目を閉じる。この温かさがあれば怖い夢は見ないで済みそうだと思う。良いと言ってくれた雨竜さんの答えに安心したら体が軽くなった。外からする、こぽ、という空気の音に意識が溶けていく。
「お前はいつも、僕を神にする。ゆっくりおやすみ、深琴」
雨竜さんの声に誘われるようにして私は眠りに落ちていった。