30 帰宅
雨竜さんが帰って来たのは夕方に近くなってからだった。引き戸が開いた音で私は玄関まで出迎えに行く。
「お、おかえり、なさい」
「あぁ、ただいま」
雨竜さんは少し驚いたように私を見たけれど、ふわりと優しく微笑んだ。朝のことは蒸し返さなければ今まで通りに笑いかけてくれるのだろう。そう思えるような優しい目。けれど私はそれに甘えて良い立場ではない。雨竜さんは悪くないのだから。
「あ、あの、今朝はすみませんでした」
勢い良く頭を下げる私に雨竜さんは何も言わない。私は頭を下げていて雨竜さんがどんな表情をしているかは判らない。
「……いや、僕も性急だった」
雨竜さんは言いづらそうだ。言葉を選ぶようにそう言っている印象を受ける。私は顔を上げられないまま、ふるふるとかぶりを振る。
「あの、実は今日、晴嵐さんがいらして、その、私、此処に」
「晴嵐が?」
硬い声がして雨竜さんが数歩近づいてきた。私は言葉を切ったまま雨竜さんの足が視界に入るのを見る。まだ草履を脱いでいない雨竜さんが私に近づくと声が上から降ってくるようになった。
「晴嵐が来たのか? お前と話を? 水希は?」
「そ、その、帯の、結び方を、教えてくれたんです。ひとりでも着られるようにって。水希ちゃんは自分の仕事があるから、って」
「帯」
はぁ、と雨竜さんの息を吐く音がして私は肩を震わせる。そういえば昨日、ひとりで晴嵐さんと会うなというようなことを言われたのを今更になって思い出した。忘れてばかりだ、私。こんなんだからいつも相手を呆れさせてきた。
「あ、あの、ひとりでも結べるようになったんです、帯。不恰好です、けど。練習すれば、きっと」
「深琴」
顔を上げた私に雨竜さんは宥めるように微笑む。悲しそうな色を見て取って私は言葉を失った。こんな顔を、させたいわけじゃないのに。
「お前のことだ、純粋に努力しようとしたんだろう。解っているさ。それに晴嵐の性格からしてお前に手を出そうとは考えるまいよ。けれどな、僕のいないところで二人で会ってくれるな。お前の細腕では退けることなどできんだろう」
「……は、い」
気まずくて視線を逸らした私に雨竜さんはまた息を零すように笑う。一般的にまだ知り合って日の浅い異性と一緒にいることは誉められないことなんだろうと私も思った。でも私は会ったその日に結婚したと言われる相手と一緒の布団で寝たし、何が何だかよく判らない。
「すみません……」
「いや、これは僕が嫌なだけだ。大切な妻の身に何かあったらと思う夫の気持ちだと理解してくれれば良い。水希が晴嵐を入れたんだろう。それなら心配することもないと僕も解ってはいるんだが。あんな小僧相手に僕もどうかと思うが、どうもな。若いお前には若い晴嵐の方が似合いかと思ってしまう部分もあるんだ」
「え」
ざわ、と騒いだ胸の衝動につられるようにして私は雨竜さんへ視線を戻す。反対に雨竜さんは私から視線を逸らして首の後ろをさするように手を持っていく。私はアラサーで、晴嵐さんは高校生くらいにしか見えなくて、雨竜さんだって私より下に見える見た目なのに何を言っているのかと私は首を傾げた。
「若いって、言っても、私、アラサーです、し」
「僕らはお前以上を生きているさ。見目に騙されるな。晴嵐はああ見えてお前より長く生きている」
それも昨日言っていた、と思い出して私も雨竜さんから目を逸らした。こんな状態で私、大丈夫なんだろうか。昨日のことさえ忘れているのに、前にこの山を訪れたことなんて思い出せるのだろうか。
「まぁ、お前が晴嵐と何もなかったのは疑っていない。だが今後は、二人で会うようなことはしてくれるな」
「は、はい。すみません」
私は胸を押さえるように手を当てる。ざわりと騒いだ感覚は少し落ち着いているけれど苦い後味をしたコーヒーのように残っていた。それが何かは判らない。けれど嬉しくないものであるのは確かだった。
「……すまんが、喉が渇いた。茶を淹れてくれるか」
「は、はい、準備します」
私は慌てて台所へ向かった。雨竜さんが履物を脱いでやってくるまでの間になるべく急がなくてはと思う。運良く台所には水希ちゃんが夕飯の準備のために立っていて、お湯の準備はすぐにしてもらえた。夕飯作りを手伝おうと申し出たものの今回もぴしゃりと断られ、私はすごすごとお茶の用意だけをした。
「あの、決して意地悪で断っているんじゃありませんのよ」
茶筒を取り出していると水希ちゃんが口を開いた。私に言っているのかと一瞬思ったけれど他に話せる人はいない。私は慌ててはいと返事をする。
「人の子を迎え入れるにあたって色々と整備はしましたけれど、竈の使い方などご存知ないでしょう? わたくしだって山にこもってはいますけれど人の世の流れが早いことくらい存じています。加えて此処は水の底。火の気など本来はない場所です。火を起こすにも工夫が必要なんです。あなたには負担をかけるでしょうから」
水希ちゃんは料理の手を止めないから私の方は一切見ないけれど、その声や言葉には気遣いが含まれていた。確かにこの宮の台所は昔ながらの造りだし使ったことがない道具も多い。ガスコンロや電子レンジ、冷蔵庫だってない此処で私ができることなんて野菜を洗ったり千切ったりする程度だろう。
「そ、っか。ありがとうございます。でもひとりは、大変だと思うので、できることがあればいつでも言ってください」
「……ええ、その時は」
水希ちゃんは小さく頷いてくれた。私はお盆に載せた急須や湯呑みなどを持って雨竜さんが待つ居間へと戻る。水希ちゃんもきっと見た目とは違うほど長い時間を生きているのだろう。本当は水希ちゃん、なんて軽々しく呼んではいけないのかもしれないけれど。
その後は今朝のことなどなかったかのように過ぎ、雨竜さんは手習いの続きだと書庫へ向かってしまった。私は返し損ねた羽織を置いている自室を思い出し、小さく息を吐いた。