28 探るもの
「それじゃ早速」
すっと障子を開けて晴嵐さんは部屋に足を踏み入れる。水希ちゃんがまたきりりと眉を上げて怒ろうとしたのを察して振り返ると、すぐに私に向いてあんたは許してくれる? と首を傾げた。梢枝さんに似た美人さがあるのにあざとくて、それなのに嫌味じゃなくて私は素直に感心して頷いた。
「言質とーった」
にんまり笑って晴嵐さんは水希ちゃんを振り返る。ぷくぅ、と意外なほど分かりやすく腹を立てた様子の水希ちゃんはぷいとそっぽを向いた。それを見た晴嵐さんの肩が震える。笑っているようだった。
「あんたもオレの説明聞いてく? おひいさん」
「いいえ、結構です。わたくしは仕事が残っていますので失礼します」
「がんばってー」
ひらひらと片手を振る晴嵐さんにまたぷいとそっぽを向いて水希ちゃんは歩き去っていく。その姿を見て晴嵐さんはまた笑っていた。怒った様子の水希ちゃんに私はおろおろしていたのだけれど、晴嵐さんは意にも介していないようだ。
「おひいさんは大真面目で揶揄い甲斐があるんだよなー」
「──……」
私は晴嵐さんの横顔を見て言葉を失った。雨竜さんと同じ優しい目だと思う。慈しむような、そんな綺麗な目。紅葉色の目が細められる様子を見ていたら、すっとそのまま視線を移されてばっちり目が合ってしまった。
「あんたも大真面目な気がする。雨竜のおっさんも大真面目だし、あんたたちって大真面目じゃないと生きられないの?」
「え、っと、そんな、ことは」
突然問われて私は慌てて返事をする。ふーん、と晴嵐さんは興味がなさそうな返事を寄越すけれど視線は私を見たままだ。私は身構えて体を縮める。誰かにじっと見られる時は怒られる時だ。段々と視線が落ちていく私に、晴嵐さんが、よし、と声をかけた。
「それじゃちゃっちゃとやろ。最低限は昨日姉さんから教えてもらったんだよね? ならやっぱり帯かなー。初心者って躓くとこ一杯あるんだよね。今日は全部覚えようとしなくて良いから」
驚いて顔を上げた私の方には見向きもせずに、晴嵐さんは何からするかを考えるのに忙しいようだ。あれもこれもと考えながら、でも欲張ってもなーと口の中でもごもご言っている。それから本当に着物の着方についてのレッスンを受けて、できなくても怒られなくて私は逆に居心地の悪さを感じていた。
「うん。良いんじゃない。服ってお洒落も大事だけど、まずは自分が楽に着られるのが一番だと思うから。他の帯覚えたくなったら教えてよ。それくらいで良いんだって」
「あ、ありがとうございました!」
合格をもらって私は頭を下げる。何度も解いては結んだ帯は不恰好さは残るものの、ひとりで結べるようになった。これで煩わせる手間を減らせるようになると思えば私の心も弾んだ。つい少し前に泣いていたとは思えないほどだ。
「まぁ、雨竜のおっさんは甲斐甲斐しく世話を焼きたいタイプだし残念がるかもしれないから、おっさんが解きたそうにしてたら解かれてやってよね。それ、浪漫ってやつだし」
「は、はぁ……?」
私はよく判らなくて首を傾げたけれど、晴嵐さんはそれには答えるつもりがないようで、ちょっとだけ手直ししてあげる、と言って私の帯を微調整してくれる。前で作って後ろに回した帯を背中側から直すために、ぐいぐいと晴嵐さんが引っ張るのに引きずられないように私は踏ん張った。
「……今、雨竜のおっさんはオレのじーちゃんに呼び出されてる」
風が囁くような微かな声だった。私は、え、と声を落とすけれど晴嵐さんはそれには答えない。
「十中八九、あんたのこと」
「どう、して」
私の疑問に今度はんーと考えるような声を出した晴嵐さんは、けれど、私の疑問には答えなかった。
「オレのじーちゃんってさ、樹齢何百年ってすげー古い木なんだ。この山のことなら何でも知ってる。動けない代わりにずっと其処に在る。山神ってやつ。この山には神様が二柱いるの。山神と水神。二つの神でもってこの山を守ってきた。人間は所有権とかってやつ、勝手に売り買いしてるけど持ってるだけで入ってくることはあんまりないね。だから入ってきたら山に住んでるものはすぐ判る。
あんたが入ってきた時だって、すぐ判った」
踏んだ土が、通りすぎざまに擦れた枝葉が、見下ろす生き物が、侵入者の存在を語る。私の挙動をもし最初から知っているなら、身を投げたことも全部知られているんだろうと思った。
「滝壺に落ちられちゃ全部水神のものだし水神の領域だから山神側のものは全然窺い知れないし、それなのに雨竜のおっさんが結婚したなんて言うから本当に山は大騒ぎなんだ。水神が何と縁を結ぼうが構わないけど。オレたちと違って雨竜のおっさんもおひいさんも、命をもらって命を繋ぐ存在だ。信仰がなければ留まることもできない。人の子と縁を結ぼうっていうのは、まぁ、理解できるけど」
それがあんたね、と晴嵐さんは小さく笑う。苦笑するような笑い方だった。
「あんたさ、どうして此処に戻ってきたの?」
「戻って……?」
「此処にっていうか、この、山に?」
私は問われたことが判らなくて口を噤んだ。この山に来たことがあるのだろうか。それを忘れていると、言われたのなら。
「何か、ご存知なんですか……?」
尋ねた私に、晴嵐さんはまた息を零すように小さく笑った。