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21 初めての夜


「しょ、や」


 水希ちゃんの口から飛び出すには随分かけ離れた単語な気がして私は思わず繰り返していた。はい、と水希ちゃんは顔色ひとつ変えずに返す。私は誰に聞かれているわけでもないのに辺りを見回した。夕食を終えて私は今、お風呂だ。ひとりでは脱げないだろうと水希ちゃんが手伝いにきてくれた。帯を解きながら水希ちゃんが続ける。


「夫婦なのですから当然でしょう。叔父様のお布団は奥様のお部屋に敷いておきました。奥様の衣類は箪笥に仕舞ってあります」


 そういえば下着類を積んだまま風呂敷だけ畳んで二人を探しに行ったからそのままだった、と思って自分の失態に頭を抱えたくなった。私がひとり反省会を開いている間に水希ちゃんは手早く重たい着物を脱がせてくれる。


「身を清めて部屋へ戻ってください。浴衣は此処に。手拭いは此処に。何も考えず、天井の木目でもなぞっていればすぐに済みましょう」


 それってつまりそういうことで、と私は思って緊張した。どうしよう。今更どうすることもできないけど。


 浴室に押し込まれて成す術なく私は体を洗い始める。雨竜さんは既にお風呂を済ませていた。水希ちゃんは後で入るのだと言う。不安と緊張が強くて何処をどう洗ったかも覚えていない。もしかすると体を二回洗ったかもしれないけれど、綺麗にしておくに越したことはないだろう。


 あまり長く入っていられるものでもなく、するべきことを終えてしまえば上がらざるを得なくなってしまった。のぼせる前に湯船から出て体を拭く。浴衣は肌触りが良くて梢枝さんのセンスの良さを感じた。


 長い髪はすぐには乾かない。手拭いで水分を拭き取りながらこれで少し時間稼ぎができるだろうか、なんて私は考えてしまう。邸が静かだからか、自分の緊張した心臓の音があたりにも漏れ聞こえてしまっているのではないかと思った。


 この命も、躰も、雨竜さんのもの。


 物理的に食べられようが、暗喩として食べられようが、私に選択肢はない。捨てたものに執着してはいけない。きっと雨竜さんならひどいことはしないと思うけれど。


 体に自信はない。自信があるところなんてひとつもないし、あの綺麗な人の目に凡庸以外の私なんてお披露目もできないけど、でも食べられるならせめて、お腹いっぱいになってくれれば良いとは少し思った。味の善し悪しは今からじゃもうどうにもならないけど、お腹が空いているなら何か食べれば空腹感くらいは打ち消せるかもしれないから。


 そうこうしているうちに髪の毛も乾いて時間稼ぎの言い訳もなくなってしまった。うだうだもだもだしながらも私は自室へ向かう。夜は真っ暗になってしまった邸内だけど、水希ちゃんが手燭を用意してくれていた。ゆらりと揺らめく蝋燭の火はゆっくり進まないと消えてしまいそうだ。


 手元から僅かな範囲を照らしてくれる手燭は裸足にはひんやりとした廊下と、漆喰と思われる壁を浮かび上がらせ、私の影を後ろに伸ばした。微かな振動で小さな炎は形を変える。それに安堵と不安を覚えながら私は進んだ。自室の前まで来て、ノックをするにも障子だしどうしようかと逡巡し、あの、と小さく声をかけた。


「深琴? どうした、入らないのか」


 中から雨竜さんの声がして息が詰まった。やっぱりいる。もう寝てないかなとか水希ちゃんはああ言ったけど実はいないんじゃないかなとか思っていたけど、間違いなく雨竜さんの声だし中から聞こえた。あ、う、と言葉を探してしどろもどろになっているうちに障子がすっと開いて雨竜さんが現れる。


 藍色の浴衣をゆったりと着てくつろいだ様子だ。昼間はひとつに結んでいた髪が今は解かれて下ろされている。流れる色素の薄い髪はさらりと音がしそうに見えた。手燭の灯りに陰影は変わるけれど優しい目は相変わらずで、私はその目と合ったと思うや否やすぐに逸らしてしまった。


「おいで、其処は冷えるだろう」


 床板に裸足でいる私を心配してくれたのか雨竜さんは私を招き入れる。部屋の中は枕元に小さな行燈がひとつ灯っていて、手燭の蝋燭は危ないからと雨竜さんが指で摘んで火を消してしまった。


 畳の上には布団が二組、並んでいた。ひとつは掛け布団が捲られていて、雨竜さんが其処に座っていたことが窺われる。ならもうひとつの布団が自分用のかと思って私はそちらへ進んだ。


「充分に温まってきたか? 布団も暖めてはあるが、寒かったら言うんだよ」


「あ、あの、はい。えっと、あったかい、です。大丈夫です」


 声をかけられたことにどぎまぎしながら、私は慌てて布団を捲って温度を確かめると答えた。そう、と雨竜さんは微笑む。そのまま布団に潜り込むから私も自分の布団に潜り込んだ。


「灯りはつけておくか?」


「い、いえ、暗くて大丈夫です」


 布団を引っ張り上げたタイミングで訊かれて反射で答えた。うん、と雨竜さんは頷くと手を伸ばして行燈の灯りを消す。そのままおやすみと言うと、夕方すぐに寝入ったようにすぅすぅと寝息が聞こえてきて私は頭の中が混乱した。


 しばらく身を固くしていたけど雨竜さんの寝息を聞いていたら私も段々と睡魔に襲われて、いつの間にか眠りに落ちていた。





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