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【独白幕間】 水神のなり損ない


 こぽ、と空気の泡が昇っていく。その音を聞きながら意識を揺蕩わせたのはもう、何年になるだろう。


「叔父様、叔父様。そろそろ何か召し上がらないと消えてなくなってしまいますよ」


 姪が声をかける。決してこの名を呼ばぬのは、この常世にさえ縛り付けておきたくないからだ。けれどこの身は彼女を縛り付ける責を負う。だからからからに乾いた喉で水希、と名を呼んでやった。最愛の名を贈られた、愛し子。


「いつもすまないね」


「……変な叔父様。さあさ、お魚が冷めてしまいます。早くいらしてね」


 とと、と軽い足音をさせて水希は去る。本来ならこの邸でもっと無邪気に振る舞っていただろうに。もっと沢山の臣下に(かしず)かれ姫として在っただろうに。自ら望んで他に臣もない自分を世話することを選んだ。下女のような真似をさせて。けれど彼女は此処が空席になることを決して許さない。


 ──仮初(かりそめ)の玉座の座り心地はどうだ、雨竜。


 幻影が耳元で囁いた。それは彼の(かたち)をしてはいるけれど、彼ではない。それは自分だ。


「ああ、最高の気分だよ。そう答えれば満足か?」


 自分自身の心に悪態をつきながら、文机に向かっていた体をよいせと起こす。人の形を取るように言ったのは紛れもなく彼女だ。自らの罪を忘れないように。自らの業を刻み込むように。


 邸内にはまだ幼き日の声が溢れているようだった。其処彼処(そこかしこ)に水希の声がし、微笑む使用人たちの微笑が見えるようだ。今はもう、誰もいないけれど。


 人身御供で神はどれほど生き永らえるのだろう。人はあの願いでどれほど、生きることができるだろう。


 ──助けて!


 乞われた願いを叶えずにはいられなかった。そうしなければ共に命は消えていたし、目が、合ってしまった。ボロボロの体を引きずって逃げた彼女が今も無事かは分からない。山を降りた後のことなど知る由もない。知る術もない。ただどうか、生き延びてほしいと思わずにはいられなかった。


 廊下を行きながら近くを通った魚群に目を取られた。まだ若い群れはこの宮のことなど聞いていないのかもしれない。魚の寿命は短い。語り聞かせるには連鎖は(むご)い。ただ朽ちるに任せろと言った者もいた。此処を出て行った者も。けれど姫を可哀想に思って慰めに残った者も少なからずはいた。


 いずれ、この身は朽ちるだろう。供物はなく、寂れていく一方で、ただ(から)にしないために在ることしかできないこの身が繋ぎ止めておける期間はたかが知れている。人が存在を忘れれば自身を常世に置くことさえできず、ただ、還る。


 (いびつ)なものは遅かれ早かれ瓦解する。今は彼女の戯れに付き合おう。そうする責が、背負う咎が、この身には余りあるのだから。


「叔父様、ほら早く、召し上がってくださいな。わたくし、段々と上達してるんですのよ」


「ああ、美味しそうだね。いただこう、水希」


 いっそ口汚く罵られ一息に清算できたなら良かった。けれど彼女はそれを拒んだ。何度巡っても、維持を望んだ。


 深い深い川の底。陽の光も僅かにしか届かぬ水の底。その水にこの身が溶け落ちるまで此処に在ることを望まれた。最も龍に近かった水神の子に、そう在れと言葉を(たまわ)った。


 永い牢獄を、それでも精々保たせられるのは十数年と思って過ごした歪な時を、彼女が変えた。


 何故戻った。そう恨みながら歓喜した。僕を神にした、人の子の想い。またお前に、会えたらと思っていた。


 どうか終わらせるのはお前の手であってくれ。神殺しの罪咎を、お前に背負わせることになろうとも。



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