20 願いを叶えたいと願うもの
「あれ、もしかしてずっと此処で待ってた?」
玄関でじっと立っていたら帰り支度をした晴嵐さんが雨竜さんと一緒に現れた。私は愛想笑いを浮かべて小さく折り畳んだ風呂敷を差し出す。
「えっと、お二人が何処に行ったか分からなくて、此処で待っていれば絶対に会えると思った、ので。これ、お返しします」
「ありがと」
晴嵐さんはにっこり笑って風呂敷を受け取った。それからすっと屈んで私のまとめていない髪を一房、手に取って唇を寄せる。
「──っ!」
驚いて仰反る私に下から綺麗な顔を微笑ませて晴嵐さんは視線を向けてきた。紅葉色の目が楽しそうに私を見る。それから小声で囁くように形の良い唇が動いた。
「雨竜のおっさんのこと、よろしく」
「……う、あ」
口をぱくぱくさせるだけで言葉も声も出てこない私を助けるように、ぐいっと雨竜さんが晴嵐さんの肩を掴んで私から離した。不機嫌そうに眉根を寄せている。
「何度も言わせるなよ、晴嵐。僕の嫁だ」
「えー、うちの梅結びの髪飾り、よく似合ってるなって思っただけだよ」
ぱっと私の髪から手を離して晴嵐さんは雨竜さんを振り返る。
「人の子のお嫁さん、良いよね。オレもその時が来たら人の子が良いなー」
「やらんぞ」
「ざーんねーん」
全くそうは思っていない声で晴嵐さんは雨竜さんの手からするりと逃げると下駄を履いてくるりと振り向いた。身軽な動作からは荷物を持っていないと随分活発に動く子のような印象を受ける。
「それじゃ、お暇するね。今後ともご贔屓に!」
がら、と引き戸を開けて晴嵐さんは扉の向こうに足を出す。ひらひらと手を振りながら扉を閉めて静かになる。まったく、と雨竜さんが息を吐いた。
「あれは梢枝の弟、晴嵐だ。昼間行った花月屋で配達をしている。梢枝も晴嵐も風の精でな。梢枝は山を降りて店をしているからいずれは晴嵐が山神になるだろう。見た目はまだ小僧だし軽薄に見えるかもしれんがお前より遥かに生きているしあれで頭が回る。一対一で話すことがあれば気をつけるに越したことはないが、まぁ、そんな機会はないな」
はぁ、と息を吐いて雨竜さんは不服そうな顔で私を見る。私は今もらった情報量が多くて受け取るだけで精一杯だったけれど、じっと見てくるので流石に気づいて首を傾げた。
「ああいう方がお前の好みか?」
「……えっ。あの、えっ?」
訊かれている意味が判らなくて私は狼狽えた。雨竜さんが私の目の前までやってきて、晴嵐さんがしたのと同じように屈んで私の髪を取って唇を寄せる。私は驚いて息を呑んだ。
「お前が望むならそうするが」
「い、い、いえ、だ、だいじょうぶ、です。あの、今まで、通り、で」
顔が近くてそれだけ言うのがやっとだった。顔に熱が集まっていくのが自分でも分かる。急に詰まる距離は心臓に悪い。晴嵐さんも美少年だったけれど雨竜さんの顔だって本当に綺麗なのだから、そんなに綺麗なものがいきなり目の前に来たら息も詰まる。
「今まで通り、の方が、落ち着き、ます」
「そうか」
息も絶え絶えで私が言うと雨竜さんは私の髪から手を離す。はらり、と髪が戻ってくるのと同時に雨竜さんは体を起こし、袖手をしながら目を細めた。
「何かしてほしいことがあるなら遠慮なく言うんだぞ。僕にできることなら叶えてやりたいと思ってる」
「ど、どうして、そんなに」
私なんかに良くしてくれるんですか、と問いかけて綺麗に微笑まれたから言葉を失ってしまった。まるで慈しむように、愛おしむように。優しくて、綺麗な微笑み。
「夫婦だからな。可愛い妻の願いくらい叶えてやるのが夫というものだろう?」
「え、あの、そ、そうなんですか……?」
「違うのか?」
夫婦がどんなものなのか、私たちはきっとお互いに知らない。だからこうしてお互いに訊いてどちらも答えを持っていないことに思い至って固まってしまう。
「わ、分かりません……夫婦になったことがなくて」
「奇遇だな、僕もだ」
雨竜さんの言葉に私は目を丸くした。雨竜さんが笑うのを堪えているのを見て思わず二人で堪えきれずに苦笑する。笑って良いのか判らないけど、雨竜さんと一緒に笑えたのは何だか少し嬉しかった。
「他の夫婦がどうかは知らんがな。少なくとも僕はそう思っているぞ。深琴、お前が妻だからだ。望んだものとは違う叶え方になっているがな、僕はお前の願いを叶えてやりたい」
最後の、素敵な恋。それを叶えることで雨竜さんが神様として命を繋ぐことができるから、きっと水希ちゃんも梢枝さんも喜んだ。晴嵐さんは生きる気があるのかと疑っていたし雨竜さんもそれに明確には答えなかったけど。
それは愛とは言わないのかもしれない。愛のある結婚とは違っていて、雨竜さんには雨竜さんの目的があって私に優しくしてくれているだけだとしても。それでも私は、誰かに優しくしてもらうことを、慈しまれることをきっと、愛だと思っている。だからそれを雨竜さんがくれるなら、私の願いはきっと叶う。
このまま他の何も見ずに雨竜さんがくれるものだけを見続けていれば。例え最後は食べられるのだとしても私は彼の願いを叶えてあげられるのかもしれない。私の願いを叶えたいという彼の願いを、私が。