18 おやつ
「帰ったぞ、水希」
雨竜さんの声に私は目を開けた。繋いだ手はそのままで、その感触を頼りに濁流に飲まれた感覚から戻ってくる。
「お帰りなさい、叔父様。奥様も。お夕飯まではまだ時間がかかりますけど」
水希ちゃんはいつものお人形みたいな綺麗な表情で出迎えてくれた。私と話したことも現実だったかと思うくらい、普通の態度だ。
「良いさ。お前の好きな団子を買って来たからな、おやつにしよう」
「まぁ、お夕飯が入らなくなってしまっても知りませんよ」
「なに、満腹にはなるまいよ」
雨竜さんは苦笑する。お茶を用意しますね、と水希ちゃんは軽い足音をさせて玄関からお勝手へと向かうのを見届けてから雨竜さんは履物を脱いだ。
「深琴」
雨竜さんに手伝ってもらいながら私も履物を脱ぐ。実はひとりで脱いでみようと試みてはいたけれど、しっかりした帯が苦しくて上手く屈めなかった。
「すみません」
「こういうのは慣れだからな。すぐにできるようになるさ」
身を縮めながら謝る私に雨竜さんは気にしていなさそうに返す。足の爪先に雨竜さんの手が触れるのは緊張した。支えてもらいながらやっと家に上がることができる私はそんなにすぐにできるようになるとは思えなかった。
今朝、食事を摂った座敷でちゃぶ台を囲みながら三人でおやつを食べる。串団子を見る水希ちゃんの目は心なしかキラキラしているようで、とても可愛かった。出来立てのお団子は受け取った時には温かかったのに、私が歩くのが遅いせいですっかり常温になってしまっている。
「このお団子屋さんは相変わらず美味しいものを作りますね」
水希ちゃんがもちもちのお団子を味わってお茶を飲むとしみじみと零した。そうだなぁ、と雨竜さんものんびりと肯定する。深琴、と雨竜さんが優しい目を私に向けてどうだと尋ねた。
「美味しい、です」
特別に何かかかっているお団子ではない。月見団子みたいに白いお団子だ。ほんのりと甘くて、余計なものが入っていない味がする。素朴で、でも何処かほっとする味だった。
「あぁ、そういえば、後で晴嵐が荷物を届けに来る。僕が出るから水希、お前は出なくて良いぞ」
雨竜さんが思い出したように水希ちゃんへ視線を向けた。そうですか、とお団子を頬張ろうとした手を一瞬止めて水希ちゃんは頷く。
「良い物はありましたか?」
「梢枝の見立てだからな。どれも逸品だろう」
「梢枝さんは叔父様の分も仕立てたがっていましたよ」
「実は一着だけ、深琴に選んでもらった」
そうですか、と水希ちゃんは私をちらりと見て相槌を打った。私は恐縮して俯く。湯呑みのお茶の水面が少し揺れるのを見た。
「ご馳走様でした。飲み終わりましたらそのままで結構ですからね」
水希ちゃんはお団子を食べてお茶を飲み終わると自分はさっさと湯呑みを下げて別の家事に取り掛かった。雨竜さんはお茶を飲む。私はまだお団子が残っている。
「慌てなくて良いからな、深琴」
急いで食べた方が良いかと思っていた私の心を読んだように雨竜さんが言う。う、と見透かされていることにたじろいで、私は小さく頷いた。お団子を食べながら雨竜さんの様子を窺えば、雨竜さんは少し眠そうにしているようだった。
「あの、もしかして、お疲れ……ですか?」
思い切ってそう尋ねれば雨竜さんは優しい目を向けてくれる。溶けそうにとろんとした眼差しはやはり眠たそうだ。
「あまり体力がある方ではなくてな。冬は特にそうだ。深琴は何でもお見通しだなぁ」
「い、いえ、そんなものでは。あの、お客様がいらっしゃるまで少し休んでも……」
良いのでは、と言おうとしたところで雨竜さんがそれじゃあと畳の上にごろんと横になった。早すぎる、と驚いたものの、雨竜さんは瞼を閉じると同時に寝息を立て始めてしまった。よほど疲れていたようだ。
それなのに私の速度に合わせてゆっくりと歩いてくれた。私の心配ばかりしてくれた。でも畳の上では冷えてしまうのではないか。
あたりを見回してみたものの、何かかけてあげられそうなものはない。水希ちゃんも何処かへ行ってしまって物音はしなかった。私はそっと立ち上がると自分が寝かされていた部屋へ戻ってそのままだった布団から掛け布団だけ抱えて戻る。羽毛のように軽いけどその分かさばって前がよく見えない。少し時間をかけてやっと座敷へ戻れば私が出て行った時そのままで、案の定雨竜さんは少し寒そうに体を丸めていた。
起こさないようにそっと、布団をかける。本当は下から冷えるだろうから畳の上では寝ない方が良いと思うのだけど、それだけ眠気の方が強かったのだろう。何もないよりマシと思いつつ、熱が逃げなければ風邪は引かないかなとそれで良いことにした。
自分の腕を枕にして眠る雨竜さんの顔を少し眺めてみた。午前中にも見たけどあまりに近すぎて何が何だか判らなかった。でもこうして少し距離を取って無防備に眠る姿を見ていると、本当に綺麗だなぁと思う。
中性的な見た目で髪も長いせいかパッと見ただけでは男女の区別はつきにくい。でも深い声は男性のものだし、大切そうに繋いでくれる手も私より遥かに大きい。色素の薄い髪と同じ色の睫毛は長くて、整った顔は作り物めいても見える。呼吸していなければ人形と言われても信じてしまうかもしれない。
家の近くにあった教会の聖母像に少し似ている気がした。別の神様だからそんなことを言ったら怒られるかもしれないけれど、私に寄り添ってくれるのはいつだって神様なのだと思うと不思議な気がした。あの教会の人は閉め出された私を哀れんで招いてくれたし、食べるものも恵んでくれた。それはただの義務でしかなかったのかもしれないけど、でも差し出されたパンを食べたのは私だ。あの頃の私はまだ、生きようとしていた。だから食べた。あのパンで十八年、生きることができたのかもしれない。
ずき、と頭が痛んだ。思考を中断して私は残っているお団子を食べる。最後に飲んだお茶は、もう冷たくなっていた。