13 お出かけ
玄関へ行くと既に雨竜さんは私を待っていた。手首に巾着をぶら下げている。
私が着せてもらった薄いピンクから濃いグレーにグラデーションになった着物は裾の濃いグレーに雪が降っている柄で、赤い実で作った目が映える雪兎が一羽、裾にいて一緒だ。春がまだ来ないこの季節には合っているように感じた。
髪の毛は纏めずに現れた私を見て雨竜さんが目を瞠る。それから優しく目を細めて笑った。
「待った甲斐があるというものだ。似合うぞ、深琴」
「あ、あの、ありがとうございます。水希ちゃんが見繕ってくれました」
「あぁ、上手いからな、あれは」
着物なんて着たことがないからどう歩いて良いか判らなくて玄関へ来るまでも私は四苦八苦した。土間まで来れば其処には草履が用意されていて、パンプスでは行くはずもないと私は思い直す。足袋を履いたのも同じ理由だ。
「深琴」
すっと雨竜さんが手を差し出してくれる。雨竜さんはもう草履を履いて出かけられる状態だ。私が困惑している理由を察してくれたのだろう。さぁ、と雨竜さんは促す。躊躇う私がそっと手を伸ばすと嬉しそうに笑った。
「すみません」
「良いさ。履き慣れていないんだろう。足が痛くなったらすぐに言うんだぞ」
「はい」
温かい手に自分の手を重ねて、支えてもらいながら草履を履く。今までとは違う感覚に覚束ない不安の方を強く覚えたけれど、雨竜さんは私の手を放さなかった。それは玄関扉を開けるからなのかもしれないけど、優しく握ってくれた手は安心する。
「開けるよ」
がら、と音を立てて引き戸が開くと同時に濁流に飲まれる感覚があって私は目を閉じた。繋いだ手の温かさがあるから怖くはない。まだ半日ほどしか一緒にいないのに、と私は自分を不思議に思った。
「深琴。目を開けて大丈夫だ」
深い声に呼ばれて私は目を開ける。飛び込んできた景色に私は瞠目した。慌てて雨竜さんを見上げれば、雨竜さんは相変わらず優しい表情で私を見ていた。
「常世の、まぁ、なんというか、商店街のようなところだな。大抵の買い物は此処へ来れば済ませられる」
雨竜さんが説明してくれて、私はまた視線を戻した。広い通りには大勢のお客さんが行き交っていて、通りを挟むようにして並んだお店では軒先まで出てきていらっしゃいいらっしゃいと声をかける売り子がいる。威勢の良い、通る声はハリや活気があって、スーパーやネットショッピングばかりだった私には目が回りそうだ。
それに、行き交う買い物客は人の姿をしているものもあれば、動物の姿をしているものも、空を飛ぶものも地を這うものもある。体の大きさも様々で、色も様々だ。頭に二本の角を生やした鬼と思しき姿がこちらに来るのを見て、私は面食らって言葉を失った。
「雨竜の旦那じゃないか。随分と久々だな」
そう鬼は気さくに雨竜さんに話しかけ、雨竜さんは穏やかに笑いながら用向きがあってねと答える。鬼は私を見て物珍しそうに首を傾げた。
「人の子か。向こうじゃ飽きるほど見てるがこの辺で見るのは珍しいな」
あぁ、と雨竜さんは微笑むと私と繋いだままの手を少し握り直した。
「僕の嫁なんだ」
「……っ」
言葉にされると急に恥ずかしくなって私は俯いた。鬼は一瞬言葉の意味が理解できなかったように息を呑み、それからがははと笑った。
「そいつはめでたい! 遂に龍が淵の主も嫁っこを迎えたか! 人の子とはまた殊勝だな。贄でもあったか?」
「そんなようなものでね。これも良い機会だと夫婦になることにしたんだ」
雨竜さんの声は穏やかだ。へぇ、と鬼は楽しそうに笑うとうんうんと頷いた。
「嫁は良い。俺も嫁がいないと生きていけない。子どもたちの面倒をよく見てくれるし、笑うと可愛い。鬼嫁なんて他の種から見たらおっかねぇかもしれんけどな、俺にとっちゃぁ可愛い嫁よ」
「良い話だ。直接伝えてあげると尚更良い」
「雨竜の旦那がそう言うなら言ってみようか。へへ、なんだ、照れるな」
「奥方もお前さんのその表情が見られるんだ。言ってあげれば良いさ」
「五人目をこさえることになりそうだ」
「結構じゃないか。子は宝だ。それに親が仲睦まじいのは子にとっても良いことだろう」
そうだなぁ、と鬼は破顔した。二人のやりとりを見守っていた私は鬼の顔が人のように豊かに笑うのを見て、家族を愛しているのだなぁと感じとる。見た目が違っても家族を想うそれは人と変わらないように見えた。いずれにしても、私には縁遠いガラスの向こう側の出来事のようだけれど。
「そうと決まりゃ、花でも買って帰るか。引き止めて悪かったな、雨竜の旦那。お幸せに」
「ありがとう」
鬼は会釈をすると背を向けて去っていった。私も一応会釈はしたけれど見えていたかは判らない。雨竜さんがあれは何々の鬼、と教えてくれたけれど耳馴染みがなくて全然聞き取れなかった。
「此処には常世のほとんどが集う。黄泉にあるもの、現世から足を伸ばしたもの、様々だ。人の子のお前には受け入れ難いものもあるかもしれないが、疑ってはくれるな。あれもこれも、総て在るものだ」
「はい」
私は頷く。もう見えているものを疑うつもりはない。信じられてこそ存在するのだという水希ちゃんの言葉を思い出す。だから疑うなと雨竜さんは言うのだろう。それならこれを夢だと思うのはきっと疑うことと等しくなる。だから私は信じようと思った。今此処に在るものを。今繋いでいる温かな手を持つ雨竜さんの、存在を。