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12 お出かけの準備


「叔父様、叔父様。こんなところにいらしたのですね」


「水希か。どうした」


 書庫を覗き込んだ水希ちゃんがにっこりと笑った。雨竜さんは同じ優しい目で水希ちゃんを見る。扉の陰からこちらを伺う様子は見た目相応の子どものようで可愛らしい。


「奥様の着物を見立てて差し上げなくてよろしいのかと思って。先ほど、履き物が破けていらしたから」


「なに」


 二人の視線が私の脚に向いて私は咄嗟に隠そうとした。肌色のストッキングだけど伝線し破けているのは目立ったのだろう。どうしてさっきは別に良いかなんて思ったんだろう、と私は羞恥に顔が赤くなるのを止められずに身を縮めた。


「やはり気づいていらっしゃらなかったのですね、叔父様」


 むぅ、と雨竜さんは喉の奥で唸った。


「どうにも僕の目は節穴だな」


「今に始まったことではありませんし」


 水希ちゃんはけろりと言って、雨竜さんを見上げた。


「人の子にもこの屋敷は冷えましょう。お出かけなさってきたらよろしいかと。寝巻きにも困りましょう?」


「そういったところに気が回るのは流石だ。ありがとう、水希」


 いいえ、と水希ちゃんは首を振る。微笑を刻んだ顔は可愛いけれど何処か冷たさがあって私は背筋にひやりとしたものを感じた。


「けれどその破けた着物ではみっともありません。わたくしが一着、見立てて差し上げますから奥様はこちらへ」


 おかっぱ頭をさらり、となびかせて水希ちゃんは廊下の向こうへ消えてしまう。視線で促されて私は立ち上がると水希ちゃんの後を追いかけた。


 襖を開けて水希ちゃんは一室へ足を踏み入れる。私も部屋の前まで来て、おずおずと中を窺った。薄暗い部屋の奥で水希ちゃんが箪笥を開けている音がする。どうぞ、と促されて失礼しますと小声で言いながら私は畳を踏んだ。


「あなたの背丈に合うものがあったかしら……。簡単なものでご容赦くださいね。以前この屋敷で働いていた者のではありますけど、仕立ては良いのですよ」


「あ、あの、全然、気にしないというかよく判らないので……」


 和服のことはよく知らない。成人式にだって行っていないから振袖さえ着たことがない。水希ちゃんは手を止めずにちらりと私を見やる。僅かな灯りに黒い目が反射するのが見えた。


「あなたは叔父様の花嫁。水神の花嫁ですよ。着ている衣服ひとつで周囲の目は変わります。どうぞ自覚をお持ちになって?」


「ご、ごめんなさい」


 思わず謝った私は目を伏せた。もしも本当に私が水神の花嫁となるなら私の振舞いや着ているものはそういう目で見られるだろう。まだ私にそのつもりも自覚もないけれど、水希ちゃんはお出かけと言っていたし、服を選びに行くのだろうからそう説明されるのも予想できる。私は自分の考えの至らなさを恥じた。


「ですが、叔父様と親睦を深めて頂いているようで何よりです。叔父様もあなたを気に入っている様子。あんな風に叔父様が笑うなんて、知りませんでした」


 そのお召し物はお脱ぎになって、と言われるがままに私はスーツを脱ぎ、足袋を履くと水希ちゃんがあれこれと着物を合わせてくれるのをただ受け入れた。


「ええ、ええ、どうぞお幸せに。叔父様には幸せになって頂かなくてはなりませんの。あなたはただ山に迷い込んだだけかもしれませんけれど、一度は捨てた躰ならば如何様にも対応できましょう? 誰の元へ嫁ごうと、よろしいではありませんか。望んだ最後の恋を叔父様とできるならば丸く収まると言うものです」


 水希ちゃんは話しながら着物を決めたらしく、私に袖を通すと手早く支度を済ませていく。ぐ、ぐ、と帯を締められながら私は何も返せずに水希ちゃんの話を聞いた。


「叔父様は言わないでしょうからお話しておきますね。

 此処は水神の住まう宮。この川は水神の通る道。かつては滝を昇り龍となり恵みの雨をもたらしたもの。ですが(やしろ)はなく、それ故か供物(くもつ)もなく、時代にか人の意識から神は姿を消しつつあります。妖も、神も、現世(うつしよ)から隔てた存在です。意識を向けられることで人の世に干渉することができる。そうでなければいずれは自然に還り、朽ちるもの」


 淡々とした声の調子に私は捉え損ねるところだった。それはきっと、一大事だ。


「人の子の来訪そのものが実に十数年ぶりなのです。この水神の宮を(から)にすることは許されない。だからこそ叔父様はずっと眠り、何も消費しないようにしてきました。時だけが過ぎるのをただ、微睡(まどろ)みながら見守って。いよいよ朽ちようというまさにその時に現れたのが、人の子、あなたなのですよ」


 私は雨竜さんの言葉を思い出す。


 ──僕はお前が傍にいてくれれば良いんだ。この身が尽きるその時まで、いてくれれば。


 はらり、と水面に木の葉が落ちるようなささやかな声と共に落とされた言葉。穏やかながら何処か泣きそうに見えた、雨竜さんの目。それはもしかして、そう遠くない未来を思って浮かんだ感情だったのだろうか。


「神を神たらしめるのは、それを信仰する者あってこそでもあるのです。神は、人のために在るのですから。だから身を投げながらあなたが最後に願いを口にしたのは渡りに船でした。縋ったのは、わたくしたちも同じです。人の子の願いを叶えることでまた僅かでも生き永らえることができる」


 水希ちゃんは正面に回って帯締めの位置を調整する。細い指がそっと帯の上から私の腹を撫でた。厚い生地越しでは彼女の体温を感じられなかった。


 さぁ、と水希ちゃんが言葉を飲み込んで私をくるりと襖の方に向けさせると背を押した。


「叔父様が玄関でお待ちです。良き逢瀬を」


「あ、ありがとう、ございます。あの、話してくれて」


 ぐいぐい押されて歩きながら私は水希ちゃんに言う。え、と驚いた声がしたけれどぐいぐい押され続けていて顔は見えなかった。


「まだ理解しきれていないけど、でも、目が覚めた時に二人が喜んでいた理由が解った、と思います。私にできることがあるのか判らないけど、それでも何か役に立てるなら、私」


 やりますとは言えなかった。まだ頭の中が整理できない。それなのに不確実な約束を幼い見た目とはいえ水神様の姪にしてはいけないと思った。明言せず言い淀む私に水希ちゃんは何も言わない。けれどぐいぐい押していた手は止まっていた。


「……卵を食べられる覚悟もなさっていてくださいね。わたくしたちは、空腹になればいつだってぺろりと食べてしまえるのですよ。水神の花嫁となったあなたを食べるなら叔父様以外にありませんが、祝言をあげようがあげまいが、あなたの身は既に叔父様のものであることをゆめゆめお忘れなきように」


 襖を開けて廊下に追い出され、そのままぴしゃりと襖を閉められてしまった。私は閉じた襖に向かって言葉を探したけれど見つけられず、行ってきます、と小さな声で言い残すと玄関へと向かった。



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