11 欲しがったもの
緩やかに時間は進んだ。あまり動くこともないからか昼食はなかった。私は昼を抜くことには慣れていたし空腹感もなかった。
外ではこぽこぽと空気の音がする。雨竜さんは私たちの好きなものの名前を半紙に書いては満足そうに笑った。私はそんな雨竜さんを見て考える。彼はどんな人なんだろう。
人というか神様だけど、見た目が人の姿だからつい人に感じてしまう。けれど疑うな、と言ったあれから思うにきっと良くないことなのだ。神様と思って接した方が良いし、神様と思って失礼のないようにしなくてはならない。
とはいえ、私は既に身を投げるという行為をしてしまっている。それが失礼にあたるとしたらもう取り返しはつかない。神様がいる場所だなんて思わなかった。でもどんなところにも神様はいるものだ、と本で読んだ気がする。普段は関わることがなくても、命を差し出したなら其処にいる神様と会うことはできるものなのだろうか。聞き届けたという願いもきっと戯れに過ぎないのだろうけど、でもこうして優しい目で見て笑ってくれるなら、それは過ぎたご褒美みたいなものなのかもしれない。
つまらない私の人生の、最後の夢なのだとすれば。
誰かを好きになることもなかった。誰かに好かれることもなかった。食事を与え、衣服を与え、場所さえあれば生き永らえることはできる。まさにその標本が私で。国に生かされながら誰にも生きていることを喜ばれはしなかったし、私自身も喜びはしなかった。それでも生きていたのは……何故だったかも覚えていない。
雨竜さんが向けてくれる優しさは決して恋ではないし思慕でもないと思う。初めて会った私にいきなり恋慕の情を抱かせるほど私が魅力的なわけもない。だからこれはきっとただの戯れ。あるいはヘンゼルとグレーテル。安心して丸々大きくなったところをがぶり、としたいのだとしても、まぁ、それでも良いと思う。一度は捨てた身なのだから、今更今後どうなろうとも。
「深琴」
深い声に名前を呼ばれて私はハッと物思いから浮上する。雨竜さんが穏やかな目で私を見ていた。
「は、はい」
慌てて返事をすれば雨竜さんはすっと立ち上がった。墨の乾いた半紙を持って、何処が良いだろうかと私に尋ねてくる。何を訊かれているか判らなくて私は答えに困った。
「何処にあればお前の目に入る?」
「えっと……?」
「好きなものが目に入れば心も多少は晴れるだろう」
気遣うように目を細められて私は反対に目を丸くした。もしかして心配をしてくれているのだろうか。
「それとも」雨竜さんが寂しそうに笑う。「本物でなければやはり心は晴れないか?」
「そ、んな、ことは」
咄嗟に否定の言葉を返した。自分に嘘を吐くのは得意だった。何度も本心では思ってもいないのに大丈夫だと言った。気にしていないと言った。でも今は、本当な気がした。
「あ、あの、もし良ければそれは、私に頂けませんか……っ」
思わず言い募っていて自分でも驚いた。雨竜さんも驚いた表情を浮かべている。あ、と私は俯いた。誰かのものを欲しがるなんて浅ましいにもほどがある。何かを欲しがったことなんて数えるほどしかないのに。どうしてもらえないかなんて訊いてしまったんだろう。
「何故?」
「あ、あのごめんなさい。良いんです、その、すみません」
「深琴」
深い声がして私は思わず顔を上げる。優しい目が宥めるように私を見ていた。少し困ったように微笑みながら。
「僕は理由を訊いている」
「う……あの、えっと」
私は視線を逸らした。でも雨竜さんは待っていてくれる。私が話し出すのを待ってくれる。だから私は言葉を探しながら勇気をもらって口を開いた。
「それ、は、雨竜さんが、書いてくれたもの、だから」
雨竜さんからの返答はない。私は深呼吸を繰り返して言葉を続けた。
「私の好きなものを、書いてくれた、もの、だから」
「──っ」
小さく息を呑む音がした。それから笑うように零された息と、動いた手が彼自身の口元を覆うのを私は視界の隅で捉える。恐る恐る目を上げれば嬉しそうに目を細める雨竜さんの綺麗な微笑が目に入った。
「参ったな、こんなことならもっと手習いを真面目に受けておくんだった」
嬉しそうに、それでも少し困ったような色を滲ませながら、雨竜さんは言う。うん、と雨竜さんは私を見て頷いた。
「お前が欲しがるならあげるとも。子どもの字よりひどいものだが」
ぺら、と音をさせて差し出された半紙を受け取りながら私はかぶりを振る。そんなことないです、と言いながら。だってこれは、雨竜さんが書いてくれたものだ。何処にどうやって書こうかと考えながら、丁寧に、温かく。
「ありがとうございます。大切にします」
「うん、いや、こちらこそ」
嬉しそうに笑った雨竜さんは何となく、照れているようにも見えた気がした。




