10 好きなもの
雨竜さんが手習いの真似事と言う習字をその後も続けたので私は何ともなしにそれを眺めた。そのうちに自分の名前ばかり書いて飽きたと雨竜さんは手を止める。
「深琴」
優しい目を向けられて私もその目を見つめ返した。慈しむように弧を描く目も唇も、安心感を覚えてつい視線を向けられると返してしまう。これは私が最後の恋をできるように取り計らってくれているのだろうか。
「お前の好きなものを教えて」
「え、好きなもの、ですか?」
驚いて言葉を繰り返す私に、そう、と雨竜さんは頷く。例えば、と彼は目を閉じた。その様子から自分の好きなものを思い浮かべているのだろうと思った。
「僕なら春の桜、夏の日射し、秋の転がり落ちるどんぐり、冬の魚たち。どれも良い。特に雨、雨が好きだ。雨音の調べはいつも表情が違う。命を育み、満たし、繋ぐ。何処にでも在って惜しみなく注ぐ。与えるなら恵みが良い」
恵みの雨を喜ぶ雨竜さんはほんの少し、寂しそうに見えた。羨ましそうに語り、愛おしむように微笑みながら、その実雰囲気は寂しそうに感じてしまった。
「深琴、お前は?」
すっと開かれた目がまた優しく私を見て、答えを促す。私は思わずその目から逸らしてえっとと口籠った。
自分の好きなもの。私は何が好きだっただろうか。ずっと仕事ばかりで自分のことは後回しにしていたからよく分からない。でも、あぁ、そうだ。
「本が好きです。自分の知らない世界を想像できるし、想像の中でなら行くこともできる。あと、私も、桜が好き、です。咲いてるのも、散るところも、綺麗だと思います。それから月を見るのも、星を見るのも。雨が降ると隠れちゃうけど、でも、雨も、嫌いじゃ、なくて」
話しすぎていないかな、と思って私はちらりと雨竜さんを見た。優しい目をしたまま、うん、と雨竜さんは頷いた。また促してもらったと思って私は息を吸った。
「窓ガラスを叩く音も、地面に染み込んでいくのも、落ち着き、ます。雨の音聞いていたら本を読むのも集中、できるし、よく眠れるような、気もするし、好き、だと思います」
「あぁ、笑ったな」
「え」
雨竜さんが安心したように微笑むから私は驚いて目を丸くした。目を細めて笑う雨竜さんの顔は優しくて、私に関心を持ってくれているのが判る。でもこんなに関心を向けられたことがなくてどう返して良いのかまるで分からない。
「気を遣ったのではない笑みだ。好きなものを話す時は自然と顔が綻ぶだろう」
ぱ、と私は自分の頬に両手の指で触れた。綻ぶ、と言われて自分の頬を触ったものの、もう驚いた後だからなのか上がっているかどうかは判らない。
はは、と雨竜さんは笑った。
「愛いことをする。先ほどの笑みも良かった。ずっとそうやって笑っていれば良いものを」
何故そうしないのかと問われているのだろうと思う。私の表情をどうこう言う人はいなかった。愛想笑いを浮かべるしか周りとは最低限の関係を築けなかった。本当はそれでも壊れてしまったのだから関係なんてひとつも築けていなかったのだろうけど。誰も私の顔なんか見なかったし、表情なんて気にしなかった。
「願わくは、お前が僕を見る時にも同じ顔をすることを」
「う、え」
驚いて目を見開く私を雨竜さんは楽しそうに見た。その意味ってつまり、と考えてパニックになる私をそのままに、そうだと筆を取る。墨を含ませ直し、滴らないように調整した。
「深琴の好きなものを書き留めておこう。僕の好きなものも。桜もまだ遠い。せめて文字に起こせばお前の言うように、想像、できるだろうからな」
所作は美しいのにさらさらと書くほど慣れていなくて、まず何処に筆先を置いたものかと逡巡しながら雨竜さんは書いていく。本、桜、月、星、雨。それは私が挙げた単語で、自分の好きなものよりも私の挙げた好きなものを雨竜さんは形にしていった。時間をかけて、その分とても丁寧に。私にはそれが何だか覚えのない息苦しさを知る出来事となった。
「書けたぞ。……読めるか?」
「読めます。とても丁寧で、あったかい、と思い、ます」
尻すぼみになりながら思い切って言った言葉に雨竜さんは驚いたように目を丸くしたけれど、そうか、と嬉しそうに笑ってくれた。
「この龍が淵川では花嵐が見ものでな。お前もきっと気に入る。春になったら一緒に見よう。もう少し暖かくなれば夜を見上げるのも良い」
それはきっとお誘いで、一緒に、という言葉を久々に聞いた私には何と返すのが正解か解らなくてただ頷いた。
今だって一緒にいるけれど雨竜さんにとって意味のある時間か判らないし、一緒にいて益になるとは思えない。優しく笑うこの神様に甘えたままで良いとは思わないけど。
「あぁ、春が待ち遠しいな」
雨竜さんがそう言ってくれるなら、私も少し春を楽しみにするのが赦される気がした。