第三回【 違和感のある知識と日本的認識 】(3/4)
もしかすると[神様]ですら、その残念な一つかもしれません。
日本の地には、非常に数が多い意味を示す[八百万]を用いて【[八百万の神様]が居られる】とされており、全ての[神様]の詳細は多過ぎて分からない。
新たな[神様]がいたとしても、数多く居られる中に一柱増えただけであり、特別に何も変わる事はありません。
このような[神様]の捉え方でも、日本人であれば不思議と理解できますが、日本人にしか理解できない意味不明な思考と揶揄されても、それは仕方の無い気がします。
その[神様]は実に多様で複雑。
人や国を創造した[神様]や、山や川などの自然を源とする[神様]もいれば、狐や鳥などの動物、実在した人名の[神様]も居られる。
自然崇拝すらも一部でしかなく、御札や御守り、文字や言葉、人形やロボット……【あらゆるものに[神様]は宿る】という発想の概念は、もの凄く日本的であり[大切にする]という思考の原点と言えるのではないでしょうか。
そして日本人は【いつでも[神様]は見ている】と感じています。
それは現在においても、土地神様への地鎮祭、氏神様への神棚、年神様への門松など、様々な神様への慣例も生活の中で色濃く残り、当然のように[おトイレ]でも居られるとして、その意識を自然と持ち続けている。
それが日本人の独特で風変りな根幹意識であり、昔も今もこれからも、いつでも[神様]は私達と共にあるものと感じているのです。