雪を見る
本作はアンリ様主催企画『キスで結ぶ冬の恋』参加作品です
本作は家紋 武範様主催企画『看板短編企画』参加作品です
「病める時も健やかなる時モ、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うコトヲ、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますカ?」
「誓います」
「良き時も悪き時モ、富める時も貧しき時モ、病める時も健やかなる時モ、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますカ?」
「……誓います」
「では、ここに契約は結ばれマシタ。誓いのキスを持って完了とシマス」
※
あれは何年前の事だったか。
中学二年に上がった娘に、反抗期が到来し我が家に真冬が訪れた。
娘の暴れっぷりはそれはもう手の付けようがなく、何が気にくわなかったのか突然怒り出し物を投げてくる。その度に家内は声を荒げ、娘を叱りつけたが火に油なのは目に見えている。
『うぜぇんだよ! 死ね! クソ親父!』
その言葉はもはや娘の口癖のようになっていて、ちょうど癌を患っていた俺は何としても治療さなければ、と奮起していた。これで本当に死んでしまえば、娘は泣いてしまうかもしれない。
元々、俺は口数が多い方では無い。
家内とも家の中では一日に一言二言、口を聞くかどうかだ。
そんな俺が年頃の娘に何を言えばいいのか、など分かる筈も無く、娘を叱るのは基本的に家内の役割になっていた。
俺はといえば、娘と顔を合わせても「おはよう」と低い声で言うのみ。それに対し娘の反応は良くて無言。悪くて舌打ちだ。一体何が気にくわないのかは分らないが、朝から挨拶をして舌打ちをされた日には仕事も手に付かない。
(一体何が気にくわなかったんだろうか……もしかして、加齢臭が……)
自分の袖を匂ってみても加齢臭など分かる筈も無く、同時に娘の気持ちも分かる筈も無い。
そんな俺が癌の手術をする時、もちろん家内には伝えてあったが、娘には何も言っていなかった。癌だという事も、手術をするという事も。言い訳をするのであれば、単に言う機会が無かっただけだ。仕事で帰ってきても娘は大抵部屋に籠っていて、中に入ろう物なら避難の嵐。だからと言って外から呼んでみても出てくる筈も無く……。
「あの子には私から言っておきます」
手術を受ける直前、家内の言葉に頷く。
まあ別に言う必要もない。あの娘は優しい子だ。今は少し反抗期という誰にでもある時期で、別に根っから親に反抗しまくる子供というわけでは無いのだ。俺はまだ覚えている。娘が満面の笑みで『パパと一緒に寝るーっ』と抱き着いてきた事を。
一体何年前の記憶だ、と鼻で笑いつつ、医師と共にエレベーターに乗って手術室の前へ。
簡単な確認をしてから、ストレッチャーの上へと寝て手術室の中へと運び込まれた。既に右手には点滴が打たれており、そこに何やらチューブを追加されると腕に冷たい感触が。
(あぁ、これが麻酔か……本当に眠くなるんだろうか……。そういえば数を数えてもらうって……)
そして気がつけば手術は終わっていた。眠った瞬間すら分からなかった。
全身麻酔を受けた事のある者なら分るだろう。
あの目が覚めた時の絶望感。
死んだほうがマシだと良く言うが、俺はあの時程「死んだ方がマシかもしれない……」と思った事は無い。
温度の低い手術室に長時間居たせいか、まるで南極に放り出されたかのように寒く、激しい嘔吐感もする。そして次第に開胸された部分が痛みだした。
それらに同時に襲われ、もう二度と全身麻酔はしたくない……と思いつつ病室に運ばれる俺。
その病室内には、家内ともう一人……娘の姿もあった。
「……親父……」
娘はボロボロに泣いていて、家内は必死に慰めている最中だった。
「あぁ、俺は死ぬのか……」と無意味に思ってしまったが、当然手術は成功している。術後の痛みに苦しむ俺に、医師が満面の笑みで「成功です~」と言ってきたのが妙に記憶に残っていて、無性に腹が立ったのは気のせいだと言っておこう。本当は感謝すべきなのだ。
「私も……残る……」
「いえ、帰ってください」
看護師と娘のやりとりが微かに聞こえた。
それを最後に、病室の中で一人、静かな暗闇の中でひらすらに娘の事ばかり考えていた。
(あぁ、悪い事したな……やっぱり嫌われてもいいから言っておくべきだった……)
家に帰ったら、まず娘に謝ろう。
そう心に誓いつつ、全身麻酔を受けたせいか一睡も出来ない地獄の一夜を過ごした。
退院して家に帰ると、娘の反抗期は和らいでいた。
以前のように突然怒りだし物を投げてくる事は無くなったが、相変わらず俺とはあまり口を聞いてくれない。ただ退院した後、娘に「黙っててごめんな」と謝った時、「別に……」と言うその悲しそうな顔が今でも鮮明に思い出せる。実の娘になんて顔をさせてしまったのだ、俺は。
これならまだ、「死ね、クソ親父!」と怒鳴られた方がマシだった。
それから俺は学習し、娘には逐一報告をするようにした。
「風邪ひいたかもしれない」「今日上司に叱られた」「新人にバレンタインチョコを貰った」などなど。
そのたびに「うぜえ」と言われたが、だんだんと娘の顔に笑顔が戻ってきていた。
我が家は冬を越え、春を迎えようとしている。
そんな娘は高校、大学、と進学していった。中学の頃の反抗期は一体どこに? と言いたくなるほどに性格は明るくなり、なんなら家族三人で旅行へも出かけた。我が家は終わらない春が訪れたように、まさに順風満帆、と言った雰囲気に包まれていた。
※
さて、前フリが長くなったが、本日……そんな娘が結婚する。
俺は今現在、燕尾服に身を包み外の喫煙所で雪を見ながら煙草を吸っていた。
癌になったというのに煙草とはいい度胸だ、と家内には責め立てられたが、俺は一言も言い返す事が出来ず、だからといって我慢する事も出来ず結局吸っている。なんという意思の弱さだろうか。
深々と降る雪。
音も無く、ただ舞うように大地を白く染め上げていく。
この光景を見ながら煙草を吸うのが好きだ。
娘の事を思い出しながら、冬の風物詩を肴に煙草を吸っていると、式場の中から一人の老人が喫煙所へとやってきた。俺の義理の父、つまり家内の実父だ。
「よう降ってんな。こんな日に」
「あぁ、お義父さん……こんな日だからでしょう。綺麗じゃないですか」
義理の父は煙草を取り出し、俺はそっと火を差し出す。
父は煙草を一口深く吸い、まるで溜息をつくかのように煙を吐き出す。
「まさか孫の結婚式まで生きられるとはな。宗吾君には感謝せなな」
今更だが、宗吾というのは俺の名前だ。
「いえいえ。お義父さんが元気で居てくれたからですよ」
まるで示し合わせたかのように、同時に煙草を吸い煙を吐く。
男二人で。溜息を吐くかのように。
「しっかし、早えな。あの子がもう二十五か。俺も今年で八十だもんな」
「そうですねぇ……俺も五十になりました……」
なんだろう、この寂しさは。
別に男二人で煙草を吸うのが寂しいわけでは無い。
娘が嫁いでいってしまうのが……寂しい……のか?
なにか言いようもない、このモヤっと感。
やはり寂しいのだろうか。
「お義父さんも……こんな気分だったんですかね……」
「ああん? そりゃアンタ……儂は覚えとるぜ。宗吾君が初めて家に着た時……コイツだけには娘はやらねえって思って……」
「……す、すいません……」
そういえばそうだ。
このお義父さんには大反対された。それはそうだ。あの時の俺は妙に自信家で、自分の行いは全て成功につながっていると信じて疑わなかった。だから俺が家内の家へと挨拶しに行った時も
『俺は会社を立ち上げ、社長になります! なので涼香さんは社長婦人です!』
と本気で言い放ったのだ。
そりゃ反対するわな。そんな先行き不安定感が溢れ出している男など。
「そういや、こんな雪の日だったなぁ。アンタが儂に娘くれって地面に土下座してきたのは。あれは反則やて。土下座て暴力やもん」
「そ、そんなつもりは……俺は俺なりに根性示したつもりだったんですが……」
そうだ。俺も彼と同じ事をしたのだ。
なかなか承諾してくれない義父に、俺は最後の手段と真冬の雪の中、玄関の前で土下座をし続けた。
一日中土下座していれば許してくれる、そう思って。
だが、義父は五分後には家内との結婚を許してくれた。
「まあ、社長にはなれんかったか。宗吾君」
「ハハハ……なれませんでしたねぇ……」
結局、俺は安定のサラリーマンを選んだのだ。
妊娠した家内を見た瞬間、俺の夢はコロっと……変わってしまったのだから。
「高坂 宗吾様、お時間そろそろよろしいでしょうか?」
その時、式場のスタッフが俺に話しかけてきた。
あぁ、もうそんな時間か。
「ではお義父さん、今日はよろしくお願いします。ちょっと……行ってきます」
「おう、奏ちゃんによろしくな」
義父に一礼しつつ、その場を立ち去り娘の待つ一室へと向かう。
スッタフは「煙草、我慢できなかったんですね」と笑っていた。前々から家内が愚痴っていたせいだろう。不味い、叱られてしまうではないか。
コンコン、と娘が待つ部屋をノックするスタッフ。
中から娘の「はい」という返事がすると、ゆっくりと開く扉。
雪が好きだった。
真っ白な雪が。大地を白く染め上げる雪が。
「……お父さん? どうしたの、ポーッとして」
「……あぁ」
真っ白なウェディングドレスに身を包む娘。
家内は辛うじて笑顔だが、すこし突いてやれば今にも泣きだすだろう。
俺は普段どうり、不愛想な父で居ればいい。
「……何か……いう事ないの? ドレス着た娘を前にして」
「ん? あぁ……」
不味い、何を言えばいいのだ。
こんな時、父親ならなんといえば……。
あぁ、いや、難しく考えても仕方ない。
「おめでとう」
ただそれだけを言い放った。
娘も「それだけ?」と鼻で笑っていたが、次第に顔をグシャグシャにして
「ぅ……うぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁ……」
泣き出してしまった。
それに呼応するように、家内も鼻をすすりながらハンカチで目元を抑える。
「ちょっと……これから式なのに……何、娘泣かしてるのよ……」
家内から責め立てられる俺。
いや、今のは俺が悪いのか。
「まあ、すまん……その、なんだ。いつも不愛想で……悪かったな。娘と何をしゃべっていいのか分からなくて……」
俺がそう言い放つと、奏はさらに顔を押さえて泣き出してしまった。
慌ててスタッフが娘にハンカチを渡し、俺にアイコンタクトを送ってくる。
不味い、また言葉を間違えてしまったようだ。
何か弁解を……
「ま、まあ……その、幸せに……」
「貴方、もう黙ってなさい……これ以上は進行に関わるわよ」
涙目の家内に「黙れ」と睨みつけられ、大人しく「ハイ……」と従う俺。
数分後、娘は涙を拭きながら顔を上げ、俺をまっすぐに見てくる。
「私も……今までありがとう……お父さん」
その瞬間、俺の涙腺が崩壊した。
胸が熱くなってくるのを感じる。こんなのは久しぶりだ。
泣き出す俺にもスタッフはハンカチを手渡してくる。
そのハンカチで涙を拭っていると、娘は立ち上がり俺の目の前に。
「もう、しっかりしてよ。バージンロードで足間違えないでよ?」
「あぁ……任せろ……」
俺の時もそうだった。
義父は俺に、家内を今にも泣きだしそうな顔をしながら差し出してきた。
今ならわかる。
あの時の義父の気持ちが。
「そろそろお時間です。よろしくお願い致します」
スタッフから声がかかり、娘は俺と腕を組んでくる。
こんな事は最後だろう。こんな事は……
ゆっくり、娘と共に礼拝堂の入り口へと向かう。
その途中、こんな事を聞いてきた。
「お母さんと誓いのキスしたとき……どうだった?」
「……どうって……何が」
「だから……その……」
何が聞きたいのか、いまいち分からないが問題は無い。
これからまさに、娘も誓いのキスをするのだから。
「レモンの味はしなかったな」
「それって……ファーストキス?」
冗談のつもりで言った言葉が、娘のツボにはまったようだ。
満面の笑みでお腹を抱えて笑っている。
「お父さん……不愛想だもんね」
「まあな……」
ゆっくりと礼拝堂の入り口へと立つ。
中から大きな拍手が聞こえ、音を立てて開く扉。
そして正面に立つ、娘の夫となる人物。その顔は緊張で強張り、頼もしくも見える。
「お母さんが……言ってたよ。お父さんは怯えてたって……」
「当たり前だろ……」
一歩、これまでの人生を思い出すようにバージンロードへと足を踏み出す
また一歩、娘の事を考えながら足を踏み出す
そしてまた一歩、これからの事を考えながら……足を踏み出す
「お義父さん……」
義理の息子の正面へと来た時、俺は無言で娘を差し出した。
こんな時、父ならなんと言うだろう。
というか、俺も義父に無言で家内を差し出された。
あぁ、そういうことか。
今なら分かる。
義理の息子の目を見れば……。
※
「病める時も健やかなる時モ、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻を想い、妻のみに添うコトヲ、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますカ?」
神父の言葉が礼拝堂に響き渡る中、家内は俺の手を握りしめ顔をグシャグシャにして涙を堪えていた。
俺はそっとその手を握りしめ、かつての自分を思い出していた。
あの時、俺は誓ったのだ。
絶対に幸せにする。俺が守ると。
「誓います」
緊張でガチガチであろう義理の息子の言葉を聞いて、懐かしさと安心感が心を満たしていく。
最初は反対したが、俺は認めざるを得なかった。
なにせ、この義理の息子は俺と全く同じ方法で娘をもらい受けに来たのだから。
「良き時も悪き時モ、富める時も貧しき時モ、病める時も健やかなる時モ、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますカ?」
「……誓います」
泣きそうな声で、それでもハッキリと娘は答える。
その瞬間、家内はボロボロと再び泣き出してしまった。
慰めるように、俺は再び家内の手を強く握りしめる。
「では、ここに契約は結ばれマシタ。誓いのキスを持って完了とシマス」
二人は向かいあい、ゆっくりと義理の息子は娘のベールを上げる。
そして、目を伏せる娘へと唇を重ねていく義理の息子。
『絶対に幸せになろう』
そんな二人の声が、聞こえたような気がした。