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6.トレンチコートと目覚め

 そして私はいま、ひとり天井のシーリングライトの近くで正座をしながら、床のベッドわきにうずくまる小さなアレクシスを見上げている。


 おいがいないほうがよろしかろと呟いて、拓斗はパリコレのモデルのように美しく、悠然と風呂場のほうへ退場していた。それからどれだけ時間が経ったのかわからない。


私の中で、時間ってものとの距離感がすっかりわからなくなってしまっているみたい。 


 自分の家なのにこうも居心地が悪いのは、世界が逆さまだからか、突拍子もない展開だからか。耳のうしろを指でかりかりと掻きながら、私はきっとその両方のせいだと顔をしかめる。


 フィギュアみたいなサイズのアレクシスは依然として動かず、ただ顔を膝に埋めている。ゆったりとした黒っぽい服からのぞく腕は白くて、髪の毛は黒い。長さはわからない。

 床に座ったまま天井にくっついたシルパニアファミリーのウサギを見る感じなのだ。小さすぎて細部はつぶれてよくわからない。


 私は大きく息を吸って、吐いた。それから集中するために目を閉じる。まぶたの裏にはちかちかと光が動いていて、あのわけのわからないボラミニでの暗闇ではないということに、いまさらながら安心する。


 そして呼びかけた。アレクシス。目を覚ましてアレクシス。


 凪いだ水面のような沈黙が横たわった。私は呼びかけ続けた。強く、強く、アレクシスの意識を揺さぶるくらい強くと、拓斗が言っていたから。


 言葉は奴隷のときに与えてもらった泥の薬のおかげで理解できるけど、名前のアクセントだけはうまく発音できない。きっと外国人が日本語を話すときみたいにぎこちなく聞こえているんだろうな。


 アレクシス、という名前のアクセントは特に難しい。レのところが一番強くて、シのところにかすかな抑揚をつけるようにタマや拓斗は呼んでいた。最後のスの名前なんて、子音だからかすかに聞こえるかどうかくらいだし。私も真似をしてみる。アレークシス、アレクシース。ううん、難しい。


 呼んでも呼んでも、返事はない。


 しばらくのあいだ全身をアンテナのようにして彼女の様子を観察したけど、彼女の髪の毛いっぽんすら動く気配はない。


「む、無視なの? それとも声が聞こえてないの?」


 どっちなのよと呟いて、ぱちぱちと瞬いて、でもやっぱりアレクシスは動かなくて、ちょっと拍子抜けして足を崩した。正座したあとの痺れがあったので。そろりそろりと両足をそろえて前に出し、両手を後ろにつく。


 もう一度呼びかけようかとも思ったけど、それ以上アレクシスの名前を呼び続ける気にはなれなかった。時間がないとは言われたけど、あまりにも見通しも現実味もない状況で気力がごっそり失われているかんじだ。私は思い通りにならないことにちょっとふてくされながら、居心地が悪いのをごまかすように部屋を見回した。わずかに開いたクローゼットから、冬物のコートの袖が見えている。


 厚手のトレンチコートだ。クリーニングに出した直後なので、薄いビニールとタグがついたままの。あのタグはものすごくとりづらいので、どうにも後回しにしてしまうんだよなあと思いながら、コートをぼんやりと眺める。

 薄いベージュ色のそれはどんな服装にも合って重宝するけど、ちょっとフォーマルすぎるきらいがあって好きにはなれなかった。

 二年前の秋、そんなみっともないジャンパーを着る年じゃないでしょうと、母が買ってよこしたものだ。世間で恥ずかしくない、硬い印象を与えるコート。まさしく母の性格や自分との距離をあらわすような。


 思えば硬質な両親と衝突もせず、かといって近づくこともできず、庇護されているという負い目にも似たもどかしさを感じていた学生時代だった。

 特に望んでもいないのに、塾や予備校などにも行かせられた。その少なくない、自分に投資されるお金に気おくれしたことも覚えている。頭の良さというのは生まれながらほとんど決まっていて、スーパーの詰め放題で主婦がビニール袋を伸ばす程度にしか広がらないとも、高校三年生になるころには思っていた。だからこんな、限界のわかっている人間に金を使う必要があるのだろうかと。


『そんなの気にするのって、ばかみたい』


 そう言ってきたのは高校のときの友達だった。親友と言える相手はいないが、思えばその子とは社会人になった今でも、ほんとうにときどき会うこともある貴重な相手だ。

 バスケ部だったその子は、名前をめぐみという。ショートヘアと短い爪、快活な光を宿す大きな瞳。


『親がそういうことをするのは当たり前だよ。ありがとうって言って、つらくない程度に打ち込めばそれでいいじゃん』

『でも、なんていうか申し訳ないっていうか。成績だって伸びてないし。予備校のお金って安くない。そんな恩、返せないよ』


 私がそう言うと、めぐみは目を丸くして、しげしげと私を眺めた。ホルマリン漬けの珍しいコウモリを見るみたいに。それからばかだなあとまた笑った。


『恩なんて親に返しきれるわけないでしょ。どれだけの恩を受けてると思ってるの? だからさ、親から受けたものは自分の子どもに返していくのよ。そして子どももまた、私たちから受けたものをその子に与えていくんだってば』


 夏の放課後、蝉の声。厚いスカートをつまんでぱたぱたと動かす彼女の白い手。からからと笑う彼女に、何と返したか覚えていない。たぶんあまりの衝撃に何も考えられなくなったのだ。


 それぐらいめぐみという少女は、健全な愛にくるまれているようだった。親に愛され愛を知り、そして彼女の言うようにその愛を子どもに注いでいくのだろうと、雷に打たれたように思った。竹で割ったような性格に憧れもした。


 そんなふうに考えられたらどれだけいいだろうという嫉妬と、きっと私には無理だろうという諦めを抱いた。永遠に平らにはならない不平等へのやりきれなさにも似た。そして今でもそれは消化されずに身体のどこかに埋まっている。


「……今ごろ、何やってるんだろ」


 大都市で忙しく働く彼女なのでめったに会えないけど、会うととてもパワーをもらえる。そして自分も少しでもそういうプラスのものをめぐみに返せたらと思える、数少ない相手だ。


「めぐだったら。こんな状況でも笑い飛ばしてうまいことやれちゃうのかな」


 私はちょっと想像してからほろ苦く笑って、でも私は私だしなあと開き直る。めぐにはめぐにしかないいいところがあるし、きっと私にもあるはずなのだ。比べることに意味はない。私は私のやり方で、この場面からでもなんとかなるなると気楽に思う。


 こんなひどい状態なのに笑えるのはめぐのおかげだなあと、ひさびさに彼女のことを思い出しながら私はもう一度上を見上げた。友達って、時間も距離も離れていても関係ないのかも。


 私は目を閉じて、アレクシスに再び呼びかける。


 私は彼女の名前を呼びながら、いったい彼女に何があったのだろうと思う。

 優秀で、繊細。それぐらいしか彼女にまつわる情報はないまま、しかし彼女は私を選んではるばる異世界から私のアパートに座り込んでいる。


 人にはそれぞれ事情がある。めぐみはめぐみの理由で地元を離れ、私は私の理由でこのアパートに住んでいる。日本にいる一億三千万人にも、それぞれある。


 じゃあアレクシスはどうなんだろう。

 理由を知りたい。知りたいよアレクシス――。


 そう思ったときだった。耳に届く微かな衣擦れの音に私は目を開ける。顔を膝に埋めていたアレクシスの肩が、ぴくりと揺れた。私は息を詰めて見守った。そのままゆるゆると顔が上げられて、うつろな彼女と目が合った。


 白い瞳。いや、白ではなく銀というべきか。瞳孔だけが黒く開いていたけど、すぐにあたりの明るさに順応するようにきりりと縮んだ。


 その不思議な瞳にぼうっと意識を奪われていると、口が開いた。


「何見てやがるんです」


 ……口、悪くない?






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