1.穴(ボラミニ)
睡眠には二種類あると思う。
ひとつは体を休めるためのもの。
一日の疲れを癒し、記憶の節目となり、頭の中を整理するための時間だ。
くたくたの身体をベッドの滑りこませれば、シーツがやさしく肌に吸い付く。布団はすべてを許すかのように包み込んでくれる。
ときどき化粧を落とし忘れて翌朝は地獄なこともあるけど、とても幸せな種類の眠りだ。
もうひとつは、何かをやりすごすためのもの。
たとえば電車で移動するとき。それは手持ち無沙汰な時間を消費するためだったりするし、学校の休み時間に机に突っ伏して眠るのは、場合によっては話しかけられるのを避けるためだったりもする。
いやなこと、辛いこと、そして苛立ちをなだめる種類の眠り。
やり過ごすだけだから解決はされないけど、ささくれ立った感情を落ち着かせるのにはそれなりに効果的だ。
ただそれも、この状況ではね。
残念ながら、ちっとも効果はないんだけど!
※
いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。
ふて寝の効果は皆無で、私の中のやさぐれはちっとも納まらなかった。それでも最初にこの暗闇に放り込まれたときよりかは、いくらか冷静になれた気はする。
私は大の字に寝っころがったまま、うんざりしながら目を開いた。もちろん昇りたての太陽の光がやさしく身体に降りそそぐ……なんてことはなくて、目を閉じても開けても変わらない暗闇は変わらずそこにある。
クジラの胃の中すらここよりは明るいんじゃないだろうか。とにかくふつうの暗闇ではないのだ。いつもなら目を閉じたとき、視界にはちかちかとかすかな光を感じるものだけど、それすらも食い尽くされたような完全な闇。この暗さを伝えるためには暗闇という単語は不十分に思える。新しい言葉が必要だ。
だからこそ穴という名前なのだろうか。たまが説明したことが頭をよぎる。暗く長い、深い闇の道、だっけ?
道ということはどこかには通じているはずで、落とし穴の底とは違う。
「どこにも行けないわけではないよね。道なんだから。うん」
あえて声にして音を作り出して、私は自分に言い聞かせる。なにもかもが未知だから、ささいなことですぐ不安や怯えに包まれてしまいそうになる。普段と違うということは、人を臆病にするのかもしれない。
体感温度だって不思議なのだ。ここ穴に放り込まれたときは冷たく暗い場所だと感じたし、今もそう感じるのだけど、不思議なことにそこからさらに冷えていくということはない。動いていないし食べてもいないから、体温が下がって震えていてもおかしくないような寒さなのに、現実に差し迫ってこないのだ。肉体の感覚が鈍くなったまま止まっているような、初めての体験。
っていうか、すべてにおいて初めての体験なんだけどね!
私はため息をついて、ごろりと横向きになってみる。ぶ厚いシリコンゴムっぽい地面の上、ひざを縮めてうずくまるような格好だ。
そういえば赤ちゃんはお母さんのおなかの中でずっとこういう格好だなあと思う。だとしたらこの体勢が落ち着くのは、ある意味里帰りしてるみたいなところがあるからなのかな。
どうしてお母さんのおなかの中にいたときのことって記憶にないんだろう。私だけでじゃなくて、ほかのみんなもそうなのかな。
わたし。私って何だろう。なんでこんなところにいるんだっけ――。
「あああ! よくない、よくない! 今よりいい状況になるように考えよう。今よりましなこと、楽しいこと、なんでもいい!」
私はあえて声を張り上げた。そして上半身を起こして胡坐をかいてみる。暗いところにいすぎて、私というものが存在しているのかどうか不安になった。
存在を確かめるように自分の鼻をつまんでみる。ちょっとつぶれ気味かもしれないけど、別に嫌いじゃない形の鼻。
耳たぶを引っ張ってみる。福耳ではない。ピアスの穴は人生で開けたことがない。臆病なのだ。
おなかをさすってみる。ナラ・ガルさんが貸してくれた民族衣装の、太い羊毛の糸の感触の奥で、適度な脂肪でたぷたぷするおなか。胡坐をかいているからなおさらたゆんだ肉を感じる。
それらを確かめて私はまたひとつ息をつく。視覚的に見ることはできなくても、この暗闇に溶けてしまったわけではない。そういう事実に安心しながら。
そう。私は佐藤縁子で、とつぜん砂漠に飛ばされて、それからもいろいろあって、いまはこんな暗いところにいる。
アパートに帰りたいな。そう。アパートには。
「拓斗!」
私は飛び上がる勢いで叫んだ。そうだ。拓斗のことを、どうしてすぐに思い浮かべなかったのだろう。かわいい拓斗、茶色いトラ猫の拓斗。舌が肥えてかりかりだけでは満足できず、上手に高級ささみをおねだりしてくるあざとい拓斗。手に甦るふわふわもふもふの毛。その毛が空中をたゆたって日の光を反射する。帰宅が遅いと不機嫌そうに尻尾を立てて見上げてくる拓斗。
触りたいなあ。
帰らなければ。
ここにいるとお腹も空かないみたいだし、いくらでも寝れるし、だらだらするには最高かもしれないけど、私にはおいしいごはんと拓斗が必要だ。
私は意を決して地面に両手をつき、ゆっくりぷるぷる立ち上がる。ずっと横になっていた体勢からいきなり立ったせいで立ちくらむのと、暗くて平衡感覚がわからずふらついた。
暗闇に仁王立ち。腕組みをして首を回す。肩をほぐすように回してから私は首をかしげた。
次なる問題はどちらへ向かうべきかということだ。暗闇で迷子というのは外国のアニメ映画でもあったけど、そこで道を示してくれたしましまの猫は残念ながらここにはいない。
「……たまのやつ。本当に、次に会ったらただじゃ済まさない」
私はまたふつふつと怒りを再燃させながら、右足を前に出す。そこにシリコンゴムの地面が続いていることを確かめながら、さぐりさぐり。たぶんすごくへっぴり腰。赤外線カメラとかで誰かが見てたらすごく滑稽だろうなあ。でも目をつぶって歩くようなものなのだ。ふつうに怖い。
右足に体重をかけようとしたとき、なんとも言えない不快感を覚えた私はとっさに右足を戻した。
自分でも理由はわからない。しいて言うならそれは真夜中に、暗く汚い細い路地を通るのを避けるような感覚だった。そっちはやめておこう、という本能的何か。
そんなふうに強く嫌悪を覚えたことなんて人生で一度もないので、私は足を引いた自分に納得できず、もう一度おなじ方向に足を踏み出そうとしてみた。だけどやっぱりどうにも気持ち悪くて同じ結果になった。
腑に落ちないながらも身体を回して、今度は反対方向である後ろへ進んでみようと足を出せば、こんどはまるで下り坂かのようにするりと歩き出すことができた。ナラ・ガルさんが編んでくれた羊毛のブーツ越しに、すべらかなゴムっぽい感触が足裏を押し返してくる。
足元も見えないままなので、へっぴり腰だしのろのろだけど、この方角には雨上がりの夏の午後のようなすがすがしい印象があり、不思議といい気分で足を進めることができる。
進みながらも、どうして最初のように進まないほうがいい方角がわかり、そして今のように進みたい方角が感じ取れるのだろうと疑問に思ったりした。どちらも等しく暗闇なのに。
私はすこし考えてみたけど、すぐに首を振った。何もかもが私の人生の常識とは異なるのだ。深く考えても無駄ってもんですわ。
歩き続けながらも、ところどころで最初に感じた「こっちには進まないほうがいい」という感覚に出会った。私はそのたびに足を止め、慎重に方角を変えて「進みたいと思える」方を見つけ、歩き続けた。
一切の音がない世界。どれだけ歩いても疲労はしないんだけど、そのかわり少しずつ頭が重くなる感覚だけがあった。
目をつぶっても開いても変化のない暗闇。異常な空間で私は混乱しながらも、今までに起こったことを思い返していた。押し入れの奥で見つけたアルバムをめくるように。
小学校の給食の、そっけない触り心地の食器。生めんを袋から破る音。うまく破けなくて麺もちぎれてしまったこと。
中学生の夏の五時間目、グラウンドで太陽の下サッカーをするほかのクラスを見下ろしたときに吹き抜けた乾いた風のにおい。ひるがえるカーテンのゆらめきのこと。
高校生の冬、部活帰りの同級生のりんごほっぺの赤さと空気に溶ける白い呼気。スカートから出た太ももの冷たさのこと。
うまく向き合えなかった初めての恋人。おまえって頼ってこないよな、と呟いたその横顔。違うと言えなくて呑みこんだ言葉は、いまどこにあるんだろう。
そしてたまのことを思い出した。たまが最後に見せた、あの悔しげな表情。
そうだ。いま考えるべきはたまやアレクシスのことだった。私は歩きながらふうと息をついて、首を振る。過去の残像を振り払うよに。そしてたまの言葉を注意深く思い出そうとした。
それらをつなぎ合わせると、たまはアレクシスのたましいなるものを取り戻したいのだと思う。本当はたまが穴を通って取り戻しに行きたいけど、「選ばれて」いないから入れないと。
そうなるとやっぱり理解できないのは、アレクシスがどう私を「選んだ」のかだ。全身全霊で思い当たるふしを探るってみる。
「……いや、知らないし!」
何度記憶を探っても、やっぱり私は彼女と会ってなんかいない。
いったいいつ――。と、そこまで考えたとき、背筋がぞわりと震えた。




