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仁義なき牛乳戦争 ―過去・ユーリオット―

 晴れた朝の台所。


 縁子はそっと廊下を伺い、誰もいないことを確認する。それで満足はせずにさらに耳をそばだて、誰の足音もないことまで確かめてひとりうなずく。それから足音を消して部屋の隅に置かれた、水筒ほどの壷へ近づく。その脇にしゃがみこみ、そっと蓋を開ける。


 壷口から差し込む光を反射してつややかに輝く乳白色の液体。縁子は相好を崩す。最後にもう一度あたりを見回し、そうっと、その壷を傾けて杯に注ぐ。


 ああ、独特の芳香、美しい純白。口に含んだときの、その甘みを想像するだけで笑顔になってしまう――。


 しゃがんだまま縁子が杯を口に運ぼうとしたとき。


「させない」


 頭上から冬将軍のような声が落ちてきた直後、背後から伸びてきた腕が、たちまち縁子の手の中にあったものを取り上げた。


「あ」


 縁子は慌てて振り仰ぐ。

 ふだんは縁子のほうが相手を見下ろしているはずの目が、縁子を憐れむかのようにゆっくりと細められた。


 そして聞こえてくる音――ごくり、と喉が鳴る、こちらまで唾を飲み込んでしまいそうになるような、それは潔い嚥下の音。


 私の牛乳。思わず呟いた縁子の手の中に、すっかり空になった杯が戻された。


 無言で見つめあう、二対の黒い瞳。部屋から音が消える。


 沈黙を破ったのはユーリオットだ。くるりと踵を返せば、しゅるりと衣擦れの音。その裾をさっと掴む縁子。それから立ち上がった。


 ようやくいつもと同じ、わずかではあるけれども見下ろす側の位置になり、縁子は唇を引き結びながらもいくぶん平素の調子を取り戻す。


 ユーリオットの洋服(キトン)に大きくしわが寄っている。一見するだけで素材の良さが知れる生地だが(たしか異国からの輸入品だと聞く)、縁子は今回ばかりは知ったことかとぐいぐい引っ張った。


 ユーリオットは不愉快そうに身じろぎする。


 そういう表情をしたいのはこちらの方だと、縁子がさらに力を入れつつ引き寄せれば、いつもの数割増しで不機嫌そうな顔でユーリオットが振り返った。


「雇い主に対する態度も知らないのか」

「下っ端の貴重な牛乳を勝手に飲み干すのが雇い主ってことですか」

「お前が飲みたくなさそうにしてたんだろう。貴重な牛乳を」

「してませんってば!」

「それは悪いことをしたな」


 言葉とは裏腹にまったく悪びれないユーリオットを前に、縁子は辛抱たまらんというふうに下唇を噛み締めて、それから低くゆっくりとした声で告げる。


「証文を求めます。今後はぜったいに、私の牛乳を横取りしないって」







 縁子がこうも静かに怒りをたたえているのは、けして彼女が食に固執しているからではない。おそらく。


 こんなふうに牛乳を奪われるのが、すでに片手では足りない回数だからだ。


 朝食の後に供される牛乳は貴重品で、また腐りやすいため市場には出回らず買い求めることはできない。専門の牛乳業者が毎朝届けるものである。


 高価ではあるが富裕層であるユーリオットの邸宅には、毎朝当然のようにまとめて配られ、その一部をゾエや下働きの女中がこの離れに壷ごと届けにくる。


 もちろん消毒や成分調整などされていない。そのため臭みも強いが、同じぶんだけ牛乳本来の濃さを甘みがあり、縁子のこの世界での数少ない楽しみのひとつであった。


 対してユーリオットは独特の風味をあまり好まず、たまに縁子に自らの分まで与えてやっていたものなのだが、ある日を境にその態度が豹変したのである。


 そのある日。


「食後の楽しみ! 牛乳です。今日はお飲みになりますか?」

「ああ」

「えっ、珍しいですね。今日は雨かな」

「おまえのぶんもよこせ」

「へ」


 そういう日もあるだろうかと縁子は自分の杯も主人に差し出した。ユーリオットはさしてうまいふうでもなく、渋面で飲み干していた。


 その翌日。


「えっと、今朝はどうしますか。お飲みに」

「飲む。おまえのも」

「は」


 どうしたのだろうと不可解に思いながらも、縁子はしぶしぶ差し出す。やっぱり義務的に飲み干す主人に首をかしげながら。


 翌々日。


「……」

「よこせ」

「まだ聞いてないのに!」


 さっさと横から取られる始末である。






 そして迎えたのが、先ほどの場面だ。つまり、久しぶりの牛乳をこっそり飲み干そうとしたところで背後から横取りされた状況だったのである。


「だいたい、そんなに飲みたいのならゾエさんに多めに運ぶよう言いつければいいだけじゃないですか! どうして、ねえ、どうしてわざわざ、私の楽しみを奪うんです!?」

「だめだ。量は増やしてはならない。おれはあくまでおまえの牛乳を飲むんだ」

「いやあああああ!」

「おまえにはわかるまい」


 半泣きの縁子に、ユーリオットはにべもない。どころか、やや恨みがましく縁子を見上げる。その顔は不満をありありとのせてはいるが、そのまま彫像にしてもなんら違和感のない麗しい造作で、縁子はちょっとうろたえた。もともとが美しいのだが、少年期のみにある儚い可憐さも備えており気圧される。加えてわずかばかり彼のほうが身長が低いので、見上げられるとなんだかいたいけな子どもをいじめているように思えてくるのだ。


 とはいえ今回はさすがに引けない。まったく納得がいかない。人の牛乳を奪うくせ、そしてまるで苦い薬のように飲み干すくせ、どうしてこんな恨みがましく見上げられなければならないのだ。


「だいたい証文を求めるとは言うが、貴重な紙とインクをそんなくだらない文言のために使えるか」

「じゃあ給金から天引きも辞さない! くだらなくはないんですってば。私の生きがいですよ、食の楽しみは!」

甘味あまみが欲しいんだろうが。熟れたイチジクでも食べていればいいだろう。好物だろうに」

「それはそれ、これはこれです。素材にはそれぞれのおいしさがあるわけで」

「ああもう、うるさい。あっちへいけ」

「いやです! 牛乳の保証を約束してくれるまで離れません!」


 牛乳論争はいや増すとともに、ふたりに挟まれた小壷の中、わずかに残っていた牛乳の表面が静かに揺れている。







 どうしてユーリオットが縁子の牛乳を飲みたがるのか――。


 それが自らの、「牛乳をいっぱい飲むと、身長が伸びるって言われてたっけ。今からでも伸びないかなあ」という、浅はかな自分の独り言のせいだとは知らない。


 廊下を通り過ぎた際にその独り言をたまたま耳にしたユーリオットは、少なくとも自分の背が縁子を追い越すまでは彼女の牛乳を奪い続ける決心をしたのだが、もちろんそれは雇い主としての、そして男としての矜持を保つために、心の中で掲げるだけに留められたのだった。






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